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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

番組放送のお知らせ

2009年7月26日 情熱大陸 23:00-23:30 TBS系列全国放送
「小児外科医・吉岡秀人」
乳幼児の死亡率が極めて高いミャンマーで子供たちの治療を無償で行う日本人医師がいる。小児外科医の吉岡秀人。夏場は気温40度を超える手術室で懐中電灯の明かりを頼りに日に10件、年間1000件もの手術をこなす。吉岡の病院には、噂を聞き2日も3日もかけて訪ねてくる患者が絶えない。数々の難手術をこなし、戦場さながらの現場で奮闘する姿に密着!小児外科医・吉岡秀人を突き動かす強烈な想いとは一体何なのか?

吉岡医師の新刊

2009年7月26日(日) 情熱大陸(TBS系列23:00~)に出演される吉岡医師の新刊
ミャンマーで15年、小児外科医の凄絶な魂の記録!子どもの死亡率の高い国で、救った命は数知れない。救えなかった命もある。限られた器具、施設、人員、そして現地医師との軋轢の中で、奮闘する小児外科医の姿を浮き彫りにする。

死にゆく子どもを救え―途上国医療現場の日記

日本兵かもしれない遺骨の放置


軍事施設内部ということで外国人が訪れることは少ない場所の僧院に用事があり先月訪ねました。そこの僧侶から、最近雨が降り土砂が削れて日本兵の遺体と思われる骨が出てきてるがどうしたらよいかと相談受けました。
この場所は戦時中イギリス軍と日本軍と激しい戦闘が行われた場所で、最近も不発弾や銃弾が見つかったようです。

ビルマの人はパゴダの近くに遺骨は埋めないとのことで、イギリス兵か日本兵の遺骨だろうとの話。戦時中は多くの日本兵が犠牲になったと前任の僧侶から聞いているそうで、かなりの確率で日本兵のものだろうとのことでした。
ちなみに国境地帯でもなく観光客も普通に訪ねることができる馴染みのある街の郊外。
ミャンマーに関わる人だけでなく戦後60数年経過した今でもこのような状況であること多くの人が知る必要があるように思います。

Mr.Ye Htet Win(No.3)

Ye Htet Win(No.3)
生年月日 1979年3月7日
出身地:タナピン(バゴー)
6人兄弟の3番目。生まれた時に眼の異常は見られなかったが、リュウマチ(医師談)のためか7歳になっても歯は2本しか生えてこなかった。5歳までは母親と一緒に生活も家計が苦しいため祖父母のところで生活し学校に通い始めるも2年生 (7歳)の時に体調崩し自宅療養。10歳になり2年生に再度入学するも試験中に問題文が2重に見え始めた。この頃から視覚がぼやけていき祖父が何箇所か病院へ連れて行くも症状は悪化の一途をたどる。
手術日がなく左目はつぶれてしまったが右目はまだ間に合うとのことで15歳のときにバゴー病院に入院して眼の手術をするも視力は回復しなかった。6ヶ月後に再手術を行うと言われ期待し手術するもやはり失敗に終わる。術前は眼が見えるようになるとうれしくて仕方なかったが失敗に終わり自殺を考えるほど落ち込んだ。右目は今も明るさだけは認識できる状況にあるが何も見えず、左眼はまったく見えない状態。
この手術4ヵ月後に父親が他界。母親の家に戻って生活していたが、父親がいなくなったことで家計は厳しさを増し、目が見えなくとも午前中に揚げ物を道端で販売、午後アイスクリームを販売するなどして家族の生活費の一部を稼ぎだしていた。
ある日姉がヤンゴン国立盲学校の入学募集の記事をみて、母親が強く勧めたこともあり1997年、18歳の時に入学。途中断念した続きの3年生の普通校に盲学校から通いはじめ7年生まで勉強する。
盲学校では将来自立できるようにとマッサージの技術を勉強。1999年にはMs.Aye Thida(No.8)と付き合い始める。Ms.Aye Thidaと結婚を考えるも将来に不安を覚え結婚に踏み切れなかった。そこで、田舎に帰りマッサージの技術で生活していけるかテストする意味で盲学校を離れ田舎に戻る。それなりの収入ができることを確認し2003年にMs.Aye Thidaと結婚。2006年に息子が生まれるも3ヶ月で病死。2007年に息子Chit San Winが生まれた。2009年に友人であるZaw Htaw Oo(No.1)に誘われGENKYに参加。これまで息子の将来のことを考えると不安で仕方なかったが、今は希望の光が見えてきて毎日がうれしい。自らGENKYで稼いだお金で近々村に家を購入予定。
息子には将来全国に住む盲人をサポートする仕事で活躍して欲しいと願っている。これからもマッサージ技術を磨いて多くの患者を治したいと思っている。