J-SATは25年間ミャンマーにて事業を行う実績と経験からミャンマー進出における

人材支援、市場調査、会社登記等、会社運営をトータルサポートします。

ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

今更ながら・・・社員教育・社内教育始めました。

今さらですが、4月からきちんと時間を取って社員教育を始めました。

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近年急激に社員数が増え、しかもほとんどが20代。
ミャンマー人の若者はすぐ転職する子がいたり仕事のことがわかっていない。とよく聞きます。それは、きちんと社員教育ができないことの裏返しだったと気づきました。

3月末に数名正社員として日本のIT企業などに人材紹介しました。現在多くの会社が、日本人新卒者と一緒に1か月間社員教育をされています。
教育を受けたミャンマー人スタッフに聞いてみると、本当に知らないことばかりで感謝した、仕事の意味がようやくわかった、と全員が感動、会社に恩返しを誓っていました。
ミャンマーに進出している日本の会社の多くは、採用=仕事を任せる となっていてまず社内教育をしている会社はほとんどないように思います。
ミャンマーの若者の多くは、仕事、働くことに関してよくわかっていないので、会社とは、利益はどうやって生み出されるか。から教えていく必要があると思い、そこから教えていくことにしました。
弊社では日本企業に対しての仕事がほとんどですので、日本語が使えれば使えるだけ仕事の幅が広がります。これについては社員からの発案で、日本語話せるスタッフが話せないスタッフに教えるクラスも始めました。
ミャンマーの人は学ぶことが好きな人が多く、離職率低下にも大いに貢献しています。

「会社の価値」=「社員の価値」

忘れず大切にします。

J-SAT直営日本語学校で日本人日本語教師を募集いたします。

業務拡大につき、弊社運営の日本語学校にて働いて頂ける日本人日本語教師を募集いたします。

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弊社は日本語検定試験合格を目指す日本語学校ではありません。
弊社日本語学校に入るために、日本語学校では異例の入試倍率4倍の難関を合格したミャンマー人が生徒。彼らは生活、人生をかけて日本語を8-12か月、朝から晩まで日本語漬けで勉強します。
日本企業で働きたいミャンマーの方に熱意をもって日本語教育を教えて頂ける方、弊社の理念に賛同して頂ける方を希望しています。
弊社サイト(http://mibti.jp) をご覧頂き、賛同頂ける方は是非ご応募ください。

勤務地:ヤンゴン市内
勤務時間:9時ー17時
休日:土日祝日
資格:日本企業で働きたいミャンマーの方に熱意をもって日本語教育を教えて頂け、弊社の理念に賛同して頂ける方。日本語教師育成講座など受講済みの方が望ましい。
年齢・性別:不問
勤務開始:2016年8月(応相談)試用期間3か月
給料:経験による
その他:海外保険、日本からの渡航費、ビザ費は弊社でご負担いたします。
※採用が決まり次第、募集を中止します。

≪申込および問い合わせ先≫
担当 西垣 info@mibti.jp

 

タンビュザヤの世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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泰緬鉄道のミャンマー側出発駅、タンビュザヤの泰緬鉄道博物館前に建立された、世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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モニュメントは元ヤンゴン日本人学校の置田校長先生と岐阜市の願成寺の住職を中心になった賛同者らが、お寺のお布施と置田校長の退職金を利用して白い大理石の発掘から平和の塔を建立、置田校長が個人的にすべてご準備されました。

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体感温度43℃の中、式典は住職のお経の後、置田校長先生のスピーチ。その後、泰緬鉄道建設に関わられ、戦後何度も来緬し慰霊を行われた木下さんからの戦時品を寄贈。今日の泰緬鉄道に対するミャンマー側の理解は木下さんが作られたといっても過言ではないそうです。

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戦地から絵手紙を日本に送られていた、後藤一味さんの絵手紙を拡大したものも寄贈されました(石塚まみさん寄贈)。参列されたミャンマーの関係者の方も、戦時中に書かれた平和を願う後藤さんの絵に驚いておられました。これらは博物館に展示される予定です。

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その後ミャンマー側からは、モン族の伝統舞踏が演じられました。

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式典には正月明けの初日、最も忙しい日にも関わらず新しく就任したモン州首相も参列(前日夜に参加表明)。

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ミャンマーの人は戦争について、あの時代だったから仕方なかった。と話す人が多くおられます。
輪廻転生を信じる仏教徒の方は、今生だけを自分の人生と捉えているのではなく、前世、来生も含めての自分の人生と理解しているのが一因のようです。泰緬鉄道で犠牲になった人は、もしかしたら前世は逆の立場だったのかもしれない。泰緬鉄道で加害者になった人は、来生は被害者になるだろう。うちの社員らと話しているとそういう理解で、日本軍が行ったこともある程度受け入れているように感じます。

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平和の塔の除幕式では、置田先生から、これは新たな出発式であるという挨拶がありました。「今回は平和の塔を建てるのが目的ではなく、平和の教え自他平等の精神を広めるために第一歩だったと感じています。(置田校長)」「自と他は一枚の紙の表裏のように、常に分けることのできない一つ、絶対に分けてはならない一つ」と塔には記載されています。
まさに、カンチャナブリでも感じた、加害者と被害者は表裏一体。泰緬鉄道はもともとイギリスが作ろうとした。戦後、日本兵はシベリア鉄道建設に連れていかれた。等々。どの時代で切り取るかで、加害者と被害者が変わってきます。
ミャンマー的な発想は、まさしく平和的な発想だと感心しました。

そんな発想が、今年1月に完成された泰緬鉄道博物館にも現れています。泰緬鉄道建設の説明は、「ミャンマー繁栄のために参加した」から始まります。泰緬鉄道博物館のオープニング式典には、鉄道建設に関わった木下さんを日本人としてただ一人、ミャンマー政府が招待しました。戦後何度も慰霊に来られたご尽力につきるのですが、それを政府として認めたことこともすごいことだと思います。

<映像はこちら>

https://www.facebook.com/488909774619574/videos/521523598024858/?video_source=pages_finch_main_video
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もちろん泰緬鉄道建設について、納得できない人が今も多くおられると思います。最難関だったと言われるヘルファイア・パス(HellFire Pass)を訪れたときは、まだ成仏せずに掘り続ける人がいるようにも感じましたし、ミャンマー国内でも日本兵の霊が出るのは今も日常茶飯事の出来事です。

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「被災地、タクシーに乗る幽霊 東北学院大生が卒論に」(朝日新聞)http://digital.asahi.com/articles/ASHDY737QHDYUNHB00B.html という記事を思いだしました。「死んだと納得したら霊は消えていた」とあります。

人生は時代によって様々なことが起こります。特に戦争は個人ではどうしようもないこともあります。しかし、起きてしまった出来事を受け入れ納得する。それが来生にもつながり平和につながる。それを理解するために、この10日間があったのかなぁ。とそんなことを感じながら、夜中ヤンゴンに戻る車の中で考えていました。

ミャンマー。いろいろありますが、やはりこの国の国民はすごいです。

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追伸:泰緬鉄道博物館は写真が数点並べていますが、展示品が圧倒的に少ない状況です。ただ、資料は、連合軍側からのもの、日本軍からのもの、ミャンマー側か らのもの とそれぞれが一緒に展示されています。日本政府としてインフラ整備にODAを拠出するのもいいですが、資金の一部をこの施設 のために協力してもらえれば、より発展的な日緬友好につながるのではないでしょうか。

新年の挨拶ー朝礼にてー

昨日1日遅れで事務所に到着。朝礼で話した新年の挨拶を自分も振り返れるように書き残しておきます。ほんとはもっと長かったですが・・・。

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水祭り期間中はスタッフらとカンチャナブリに行きました。
もともとはダウエイ→カンチャナブリ→ビエンチャンに行く予定にしていましたが、色々な出来事があり、カンチャナブリ4日間滞在し、ビエンチャンにもバンコクにも行きませんでした。(行けませんでした)
カンチャナブリではふとした思いつきで泰緬鉄道博物館のツアーに参加しました。設立当時から働いているタイ人マネージャーがガイド。彼女は普段ガイドはやらないのに当日突然ガイドするよう上司から伝えられました。私たちが初めてお会いしたときは、「あなた達は何者ですか?」と逆に質問されました。多くの人が亡くなったヘルファイアー・パスでは謎の虫が大量発生。私だけその虫に噛まれ突然痛みが出たりしました。泰緬鉄道に関わり、戦後尽力を尽くした日本人の銅像を撮影しようとしたら、突然カメラが作動しなかったり、泰緬鉄道関連の映画をみたら、どうやっても画像が乱れたり、と色々なことが起きました。

カンチャナブリに滞在中には、泰緬鉄道の終着点であるタンビュザヤの平和の塔の式典に突然誘われ、正月明け初日でしたが不思議な縁を感じ、みなさんには迷惑をかけましたが昨日参加してきました。

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この水祭り期間中の体験を通して気付いたのは、多くの人が(目に見えない人も)我々に期待をしているようです。そして応援してくれています。ですので会社もどんどん大きくなっています。我々の仕事は、お金儲けだけの仕事はなく、多くの人々を幸福にする仕事だと自負しています。

大きくなったから、有名になったから驕ることなく、謙虚さを忘れず努力を続けることが大切です。

我々には多くの課題やミッションが日々与えてられています。それは会社=働く社員、つまり皆さん一人一人にミッションを与えられているのと同じです。ミャンマーは新政権が動き始め新しい時代に入りました。そしてJ-SATも新しい時代に突入しています。連日、他の会社に比べたら忙しいし大変かもしれません。世の中の出来事、目の前に起きることはすべて理由があります。必要必然です。今この場(J-SAT)にいる理由を考え、感謝し、一人一人が与えられたミッションを感じ、新しいJ-SATを皆で作り上げていきましょう!

泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Centre)の1日歴史ツアーに参加して感じたこと。

カンチャナブリ市内にある泰緬鉄道博物館の1日歴史ツアーに参加しました。朝8時半にホテルに迎えに来てもらい、まずは泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Center)をじっくり見学。

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泰緬鉄道博物館創設当時から働くマネージャーが専属ガイドとして特別に終日案内してくれました。彼女はほとんどガイドとして一般客を案内しないそうですが、突然指示され本日案内することになったそうです。

タイ人・日本人・ミャンマー人のこのグループらしく、それぞれの国の立場での意見があり、認識の仕方 (教えられ方)も違っていて、中身の濃い1日となりました。

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その後、収容所跡や当時の駅跡、どのように捕虜が現場に送られていったのか等、普通のツアーとは全く違い、彼女が持参した昔の貴重な資料を見ながら、彼女自身が多くの証言者からヒアリングした内容などとともに詳細説明してくれました。

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朝8時半からスタートし、終わったのは18時過ぎ。当地を訪れる方には是非お勧めのツアーです。

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いくつか回った後、旧泰緬鉄道のナムトク線に乗車。

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ハイライトのティンバートレッスル橋(アルヒル桟道橋)、全長約300mS字カーブの木造橋は2週間で作り上げたということには驚きました。

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ランチ後はヘルファイアー・パス博物館(サイヨーク)。

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Hellfire Pass では、竹の松明で毎日18時間労働し切り立った崖を素手で切り開いた痕がいくつも残されています。

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慰霊碑の先は木の橋(今は朽ちてありません)があり、その先にずっと続いていきます。泰緬鉄道の8つの大きな橋のうち、タイ側は1か所、ミャンマー側は7か所。ということは、ミャンマー側はすごい状況であったことが想像できます。

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博物館には泰緬鉄道に関わった国別強制労働者数がありましたが、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、アメリカ人らが61,800人参加、うち12,619人死亡【POW/捕虜】、インドネシア人、マレーシア人、ベトナム人、ミャンマー人などアジア人【SLAVE/奴隷】が20万人参加、うち8万5千人が死亡。(ミャンマー人は18万人参加し4万人死亡と記述)
にも関わらず、犠牲になったアジアの人々の墓地や慰霊碑だけでなく、記載やデータもほとんどない現状。しかも、アジアの人々を区別して【奴隷】と記載。

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タイ人のマネージャーが長年この仕事を続けているのも、タイではこの史実を学校では詳しく教えておらず、機関車や橋を背景に写真を撮ったりしているだけなのは悲しく思い、皆に知ってほしいから働いていると話していました。

ミャンマーでも詳しくは学校で教えていないそうです。ミャンマー人観光客が正月休暇中ということもあって多く訪れており、記念撮影をしていましたが、この建設に関わった全人数の約60%、亡くなった人の40%がミャンマー人だったということを理解しているのでしょうか。16ヶ月で10万人が亡くなったということは、毎日200名以上亡くなっていた計算です。

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泰緬鉄道は、もともとイギリスが植民地時代に敷設しようとした路線。当時、もし労働者が確保でき、建設工事が始まっていたら今の歴史とは全く逆の立場。

日本人はというと、戦後日本人捕虜ら日本人107万人はシベリアに輸送され鉄道建設や森林伐採、炭鉱労働で約34万人が犠牲になりました。

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ミャンマーの人々は日本軍が統治していた時代のことを日本よりは詳しく教えており、授業で勉強したときは、日本人は戦時中どれだけミャンマーの人に対して悪行行ったひどい人だと感じる人が多いようです。ただ、戦後の日本による支援や日本人と直接触れたことによって、歴史も受け入れた上で多くの人が親日家になるそうです。

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映画『レイルウェイ 運命の旅路』をみました。実際にタイの捕虜収容所で、憲兵隊の通訳を担当していた永瀬隆さんという方、恥ずかしながら知らなかったのでネットで調べてみました。

「永瀬さんは旧日本軍への憎しみを持つ元捕虜のの中、何度もの英国の退役軍人会などに手紙を書き続け、76年10月。23人の元捕虜がクワイ河のかかる橋の上に集まった。和解に向けた第一歩は元捕虜の批判も巻き起こした。「旧日本軍と和解するのは裏切り者の行いだ」。旧日本軍の間にも永瀬さんの活動への反発は強かった。それでも永瀬さんは地道に元捕虜たちとの和解活動を続けていく。「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(3)巡礼:http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140112-00031506/

映画『レイルウェイ 運命の旅路』では、お互いが当時を振り返り、そしてその事実を知り理解し、「和解に尽力してきたあなたは誰よりも勇気がある。カンチャナブリーで起こったことを忘れはしない、でも、あなたのことは心から赦そう、憎しみはいつか終わらさなければ」。二人はよき友となり、2011年、永瀬の死まで友情は続いた。2012年にエリックが亡くなり、パットが見守った。と終わります。

ここに大切なヒントがあると思います。何事も人それぞれに、価値観・歴史観が異なるので、歴史の伝え方も違う。それぞれ一方の主張だけだといつまでも平行線になってしまう。この泰緬鉄道博物館も同じ。70年経った今もヘルファイアー・パスには日本軍に対し憎悪を憎しをもった人々が残されているように感じました。当時を振り返りお互いが理解しあえる、未来につながる機会が必要です。

今月から日本兵の遺骨収集が再開されたから今こそ、どうして人々は死んでいったのか。そしてその人達に関わっていた人達はどうだったのか。相手国(連合国側)はどうだったのか。
ティラワに巨額な支援をする前に、日本は戦争の史実を日本人用だけのものではなく、現地の人にも、未来を支える日本人にも、イギリスやインドの人にも、史実を恐れずきちん伝える博物館などを建設すべきだと感じます。

例えば、ミャンマー政府、日本政府、インド政府、イギリス政府、ミャンマー民間、日本民間、イギリス民間、インド民間、それぞれが関わり納得でくるような博物館があればいいのかもしれな。そういう歴史博物館を作ることも重要な支援ではないでしょうか。

ついに遺骨収集の法律が施行されたので、写真とともに20年間を振り返ってみました。

太平洋戦争で亡くなった戦没者の遺骨収集を加速する法律が、今月1日、ついに施行されました。

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この方は40年以上前に行われた第一回日本政府による遺骨収集の実現に、当時ビルマ政府ホテル観光省の役人として尽力をつくされた故マウンテン大佐です。彼がいなければ当時遺骨収集は実現しなかったという話を聞きました。彼にヤンゴンに残される戦時中の建物や当時どのように利用されていたか、案内してもらいました。その一つが今のチミダイン国立盲学校で、それが縁でGENKY視覚障害者支援につながっていきます。彼に合わなければGENKYはありません。といことはミャンマーで視覚障害者マッサージとう職業が定着していないということになります。ほんとに不思議ですねー。

ミャンマーで生活していると、特に番組制作のリサーチなど20年近く行っていると、遺骨には度々遭遇していました。ですので、ロケハンやリサーチのときには日本の線香をいつも持参。家に戻るときは家に入る前に塩を振っていました。
実は・・・以前の事務所にもどなたかおられましたので、事務所入口には盛り塩をしていました(笑)。私が日本などに出張する時に決まって事務所内で不思議な現象が起きていたので、不在中を守っていてくれてるのだと勝手に思っていました。いつも助けて守って頂いています。ありがとうございます。といっても、私は全く霊感ありませんので見えません。

遺骨は勝手に日本に戻すことはできず、日本大使館に遺骨とともに遺骨があるだろうリストを作成し預かって頂いていました。
そんな中、ついに先月日本に戻ることができるようになりました。

この法案が通ったのを受け、ようやく帰国が叶うのと同時に、70年以上前にこの地で何が行われたのか、という歴史がこれから日本でニュースや番組になり人々の注目を浴びる。学校で教えられている社会の教科書では「インパール作戦では」と一言にまとめられてしまっている、その文脈の中の事実が再び注目を浴びる。日本の支援、企業進出が本格化する今こそ、それが大切な気がします。

ということで、残っている写真をざっとまとめようとしたら、多くの写真が紛失(涙)残っているものだけ、コメントつけてご紹介いたします。

みなさん、ついに帰国開始です!

こちらインド国境タム郊外にあるパンタ村。ここからインパール向かう場所で、40年前、第一回遺骨収集団が来られた時に案内した人が見つかり、色々話しを聞きました。

インド側で負傷した日本人用の野戦病院があったが、重症で安全な場所まで行けない負傷兵が多かったこともあり、隣に墓地を併設していたそうです。そんなこともあり、掘ればいくらでも遺骨が出てきたそうですが、途中でスコップが人々の方に勝手に動き始めてしまい危険になり、途中で断念したそうです。私が訪ねたのは2005年。この場所は当時インド側が政情不安でしたので時折銃声が聞こえる現場でした。ミャンマー兵に周囲を銃で護衛してもらいながら訪問しましたので、その第一回遺骨収集以来初めて訪ねた日本人でした。

シュエチン村にも遺骨がいくつかありました。この時は遺骨持ち帰れませんでした。

こちらコンタン村

コンタン村には日本の軍票を作る造幣局があったと地元の老人に聞きました。

 

ここも思い出に残るアッロエ村。ここでは当時、日本軍とイギリス軍が24時間ぶっ通しで戦った激戦の地と聞きました。
このときは番組リサーチで行ったのですが、その後番組ロケでも訪問予定だったのですが、理解不能な不思議なことが次々起こり、結局取材できない地となりました。当時は、多くの人が戦死した地なので、きちんと僧侶をお連れしてからの方がいいのでは、と取材班に理解して頂き諦めた覚えがあります。

この写真は2009年イラワジ川の対岸にある有名なクレ高地。

当時を知るドウ・ケンウー。ここも多くの慰霊に日本人の方が来られていたが最近はほとんど来なくなり、慰霊碑も荒れ果ててきていると嘆いていました。あれから7年もたち、当時を知る人ももういないと思いますので、忘れ去られていくのでしょうか。

ミャンマー中部の村、タウンレド村。結局、番組にはなりませんでしたが、この地で襲撃を受けたが生き残った旧日本兵の方が訪問したいということで、この地を探しました。これは銃痕の後。

2009年に訪問したタウンレド。この女性は戦時中、この地に日本軍が駐留していた時に生まれた女性で、名前は駐留していた日本人がつけた。と村人皆が知っている地元では有名な女性でした。村では、これまで多くの遺骨が出てきたそうですが、輪廻転生を信じるミャンマーの仏教徒にとっては骨は大切なものではないので、すべて捨ててしまったそうです。

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ここはメッティーラの郊外。軍施設の中ということで、一般の人は入りにくい場所でしたが、今も銃痕の後が残る建物がありました。

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その前には、今も遺骨が流れ出て着ていました。

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この遺骨は集め日本大使館に預かって頂きました。(2009年)

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メッティーラのゴルフ場にある今は使われていない井戸。ここに自ら命を絶った日本兵がおられる。と案内して頂きました。

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戦時中はマンダレー王宮が日本軍の司令部になっており、その中で日本語も教えていました。その卒業証書。とご本人。いろいろ当時の話を聞きました。

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最後は、2005年に訪問した、ピィのサンペイさん。戦時中日本軍の通訳をし、そして戦後はODAで作られたマツダや日野の工場で働く日本人の方々の様々なお世話や慰霊碑建立に尽力をされました。彼が涙を流しながら当時の日本軍の悲惨な現実を話は壮絶でした。番組はこちら(http://www.ctv.co.jp/chu/lady/2005/0421/

他にもいろいろあるのですが、写真が見つかりません。また見つかったら記録用としても、記載してみたいと思います。

日本へのミャンマー人材派遣・紹介サイトのホームページが完成しました!

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もうだいぶ前の話ですが、海外派遣用サイトがようやく完成しました。
これまで口コミだけで対応してきましたが、ミャンマー人材を送り始め実績が積みあがってきましたしお問い合わせも多いためいつも資料がなく困っていました。

ミャンマー介護人材派遣もいよいよ本格化してきそうということから、心決めて一気に作り上げました。
といっても、ネットで検索して日本の業者さんにお願いしただけ。
このサイトでかかった費用、10万円ちょっとなんです。

しかも、このサイト制作が今の時世そのままなのです。

ミャンマーでホームページ制作と検索して良さそうなサイトに依頼。
日本に滞在されていそう?な人と一度だけスカイプのやり取りして、あとはヤンゴンから文章とイメージと写真を担当になった日本人の方に送る。すると1週間後にはサンプルが出来上がってきました。
そして修正などやりとりして3週間足らずで完成。修正も翌日には必ずやってきます。
完成してからわかりましたが、この担当の方、何とオーストラリア在住の方でした。
ということは、
ミャンマーで発注、日本で受注、オーストラリアに発注。ミャンマーとオーストラリでやり取り。という流れ。しかも皆日本人。ほんと、今風です。

すごい時代になったと感動したら、実は自分が手掛けているのも同じですね。
日本で受注してミャンマーで日本語ができるミャンマーの人が制作、そして日本に戻す。
そういう時代ですなんですね。実感。

すべて納品終わり、このサイト制作担当の方からのメールで感動しました。
日本のクリエーターの方、レベル高いですねー。

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少しでもお客様のご要望にかなったサイトになったようでこちらこそとても嬉しく思っております。
修正や素材の提供等、毎回迅速にご対応頂き、こちらもスムーズに制作を進めれる事が出来ました。改めてありがとうございました。
私自身、今回の制作を通じ、それぞれの国がいま抱えてる雇用・労働者問題について改めて深く考えさせられました。そのプラスとマイナスを上手く相互で補い合う事によって、国同士の生産性や技術力も向上し、それぞれに還元される、とても素晴らしい考えだと思います。今や中小企業だけでなく、農業や漁業から離れてく若者も多く、ヒューマンリソースの問題はいま日本企業が抱えるとても難しい問題だと思います。
日本もまだまだ水面下で就職氷河期が続いているとはいえ、仕事の内容さえ選ばなければ、まだ生きていくだけの食費や生活費は稼げる仕事があるだけ恵まれているとも感じました。一概に全ての若者にあてはまるとは言えませんが、今の日本の若者は、まだ「職を選べる」立場にあるのではないかと思います。その点、ミャンマーの若者達は良い大学を出ているのにも関わらず、第二言語をもマスターして、違う文化や環境の下で働く事にひたむきに頑張る姿勢に強く感動しました。それをこのサイトで少しでも上手く分かりやすく伝えれれば良いなぁと思いながら制作させて頂いた次第です。
少し余談にはなりますしたが、今後とも御社の活動と発展に多々期待しております。

CHACO-WEB
WEBクリエーター/デザイナー
山下 真智子
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一番館が20年の歴史に幕を閉じました。

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私がミャンマーにやって来たのは96年4月。一番館は96年5月にオープンしました。この一番館が先月31日、20周年を持って、連日予約が入れない状況下、皆に惜しまれつつ閉店しました。
小丸夫人が、丸20年という区切りなどもあり英断されたそうで、今後の人生を楽しまれるそうです。
多くの日本食レストランがヤンゴンに出来ましたが、家賃がすぐ高騰することやパートナーの問題なので、5年以上続くのは至難の業。そんな中20年、しかも冬の時代を乗り越えて変わらず繁盛されているのは、様々な工夫と地道な努力と活動、それが大切と思ってもなかなか真似ができないことを20年間やり続けてこられたことにあるかと思います。こちら、インタビューした記事がありますのでご覧ください。
http://yangonow.com/jpn/interview/?p=113

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最後の日。話題はやはり、その引き際。その後どうします?と。
私はずっとヤンゴンで生活してることに違和感はなく、ヤンゴンで死んだ場合は骨は・・・と周囲に伝えているのですが、意外にみなさん日本に戻ることを想定されておられることに驚きました。さらに、会社をどうするのか等々。
一応考えてはいるのですが、50歳を超えたらあっという間に時が過ぎそうなので、来週からの水祭りの間、本読みながらゆっくり考えてみます。

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人材育成と健康。これに尽きるなぁ。
ということで、まずは3日間断食してみました!

20年間お世話になり、ありがとうございました!

今年も直接ご依頼頂きました。ヤンゴン外国語大学とマンダレー外国語大学から日本企業へのインターン。

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昨年に続き、今年もヤンゴン外国語大学日本語学科とマンダレー外国語大学日本語学科からインターンの依頼があり、来年卒業する希望者に説明会及び面接、登録会をヤンゴン、及びマンダレーで行いました。

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ヤンゴン外国語大学からは82人、61人が登録、マンダレー外国語大学からは50名のうち16名が登録に来られました。
昨年から大学勉強期間が4年間になったこともあり、ほとんどがN2以上、N1の子もちらほら出て、多くの日本企業が関心を持っています。
以前は大学卒業後、日本に留学する学生も多かったですが、年々就職希望者も増えてきています。
前期は12月から3月、後期は6月から9月ということで、5月の一か月間のインターンですが、ミャンマー進出済み企業さまらにお声掛けさせて頂いたところ、27社の企業様にご協力頂けれることになりました。

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今月、それぞれの希望する企業と受け入れて頂けれる企業との面接をそれぞれ個別に行い、来月1か月間にインターンに挑みます。
弊社も国内人材部門と日本語教育部門でインターン受け入れ予定です。

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うちには、日本の外国語大学ビルマ語学科の日本人インターンが2名いますので、面白い展開になればいいなと思います。

 

恐るべし!ミャンマー人材採用に威力を発揮する「内田クレペリン検査」!

4月1日から新人6名が入社しました。
ついに新年度がスタート。弊社もこの日を目標に準備をしてきました。
今季は事業をさらにミャンマー人材関連に集中。ミャンマー人材のスペシャリストをさらに深堀していきます。それに伴い、新人6名は全員人材部門に配属。さらに、別部署からも人材部門に移動。事務所のレイアウトを一部変更、人数が増えましたが逆に事務所はすっきりしました。
とはいえ、候補者が溜まると熱気はすごく、息苦しさを感じるような活気あるオフィスは健在です。

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今回の新人採用には新しい試みをしました。
弊社がミャンマー国内代理店を行う、内田クレペリン検査。
これまで内田クレペリン検査を当地で実施、ミャンマーの方々の驚愕の結果にミャンマーでの有効性に自信を持っていました。
活用頂いている、ある在ヤンゴン日系工場では、内田クレペリンの検査結果を基に配置転換。生産性が上がるという結果がすでに出ています。
弊社でも検査結果を受け、受付の子の処理能力が普通の日本人以上のものを持っているとの結果で部署移動。新しい部署でさっそく効果をあげています。

これまで弊社で人材採用する際、履歴書をみて面接が一次審査。その後内田クレペリンを使用し採用に役立てていました。が、今回は、履歴書、人物に会う前に検査を実施。
そこで驚くべき検査結果が出ました。42名の候補者のうち、何と15名がマルA。日本人大卒の人でも取れない結果で、他の東南アジアではほとんど出てこない人物が1/3もいました。しかも、2/3は男性!(弊社採用は5名男性、1名女性)
いつも最終面接には女性ばかり残るのに(弊社だけではないと思います)、驚きの結果でした。驚きはそればかりではありません。処理能力が高い人物から面接したのですが、一番高いのは、茶髪の地方大学普通の学部大学卒、英語は少ししか話せない若者。二番目に高かったのは、貧相な顔(ごめんなさい)で、見た目仕事はできない典型のような外観。三番目は、真面目そうな育ちの良さそうな子でした。
ええええ。と思いましたが、質問したら、キレキレの回答。恐るべし内田クレペリン検査

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面接には、内田クレペリン検査の内田社長らも同席という豪華な面接。
内田社長も。「あの面接の状況でテストの結果がなければ、誰を取るか、決断に苦慮しそうな実感を持てました。もちろん検査は万能ではありませんが、面接を補う情報としての価値は、日本以上に高いのかもしれません。ミャンマーの大卒は英語の文法と単語はよく知っているので○Aの子はすぐに話せるようになりますので、英語力は気にしなくてもいいかもしれません」
とお話されていました。

弊社の幹部は女性がほとんど。ほかの日系企業も多く女性が活躍していて、男性は・・・という声がよく聞こえて来ます。が、女性の方が面接は上手ですし服装もしっかりしている人が多い。一方、男性は面接苦手な人も多く、きちんとした評価を受けてこなかっただけかもしれません。

ミャンマーの男性の底力はいかに???来週から本格的に勤務が開始。内田クレペリン検査で好成績をあげた彼らの活躍は、注目に値します!!!