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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

「ビルマ 絶望の戦場」書籍化!

昨年NHKで放送され大反響を呼んだ「ビルマ絶望の戦場」
こちらが書籍化されました。
NHKスペシャルに入らなかったものがBS1スペシャルで、そしてBS1スペシャルでも入らなかったものが今回の書籍版に入っています。

さらに今回は取材実現の経緯も記載頂いていて、弊社のことも少し触れて頂いています。
ぜひ一度ご購読くださいませ!

ミャタンさんが急逝されました

8月15日のNHKスペシャルで放送されたものを再編集し10月16日にBS1-NHKで放送された 「完全版 ビルマ 絶望の戦場」で貴重な戦時中の様子を語ってくださったミャタンさんが急逝されました。

ギリギリのタイミングで取材ができたこと、番組として広く事実をお伝えする事ができ、そして後世に残すことができたことに、あらためて感謝します。

実はミャタンさんは弊社社員の祖父で、日本軍占領下における一般庶民の日本軍に対しての感情、実際体験した敗走中の日本軍の実態、そして反日抗争の前夜からその後等々、当時の目撃者として貴重な証言を多くを語ってくれました。

取材中に戦時中のことを様々思い出したこともあり、取材後に生まれ育ち戦時中生活していた場所を訪れ、昔お世話になった方々や仲間を一人ひとり訪ねて挨拶されたそうです。
以前、コロナに感染したこともあり、それが原因のようで、突然息を引き取ったとのことでした。
ご家族からは、取材があったことにより、昔の友人らに挨拶でき、そして映像にも残り感謝しているとのことでした。

弊社から御香典をお渡ししたところ、祖父が生前寄付したいと思っていた場所に全額寄付させて頂きます、と連絡頂きました。

ご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げます。

【J-SAT制作協力番組のお知らせ】

≪あしたが変わるトリセツショー「お茶のトリセツ」≫
●放送時間: 10月13日(木)19:30~20:42(72分拡大SP・生放送)

(※ミャンマーVTRは番組後半かも…)

●ゲスト:  山里亮太さん(南キャン)・フワちゃんさん・高瀬耕造アナウンサー
●そのほか: 総合テレビ・全国(海外配信&オンデマンドでの配信もあり)
https://www.nhk.jp/p/torisetsu-show/ts/J6MX7VP885/episode/te/M997LXM6RP/

屋台・スーパー・卸売り市場など短いVTRとは思いますが、素敵な映像が流れる予定です。ミャンマーの文化が、少しでも視聴者の方々に届けば幸いです。

≪完全版 ビルマ 絶望の戦場≫
●放送時間: 10月16日(日)22:00~23:50(110分)
●そのほか: NHKBS1
https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/NLVVJ5JNX2/

今年8月15日に放送され、ギャラクシー8月月間賞など受賞したNHKスペシャルを110分バージョンにした完全版。永久保存版ですのでぜひ録画ご準備ください!

NHKスペシャル「ビルマ 絶望の戦場」放送のお知らせ

制作に協力させて頂いた番組が、2022年8月15日(月)に放送されます。
日本とミャンマーの関係を語る上で欠かすことのできないビルマ戦。
ぜひご覧くださいませ

2022年8月15日(月)NHK【総合】午後10:00~午後23:00(60分)
NHKスペシャル「ビルマ 絶望の戦場」
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/4Y4NQ976NV/

文化庁芸術祭優秀賞など大きな評価を得た「戦慄の記録・インパール」の制作チームが挑む“第2弾”。3万人の戦死者を出し、太平洋戦争で“最も無謀”といわれたインパール作戦。実は、その後の「撤退戦」で、はるかに上回る命が失われていた。戦局がほぼ決したビルマで何が起きていたのか。新資料と証言から、知られざる“絶望の戦場”を描く。

2022年8月15日(月)NHK【総合】午前2:43~午前4:00(77分)
NHKスペシャル 選「戦慄の記録 インパール」初回放送日: 2017年8月15日
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/MYYQ3Z8LN5/

川幅600メートルにも及ぶ大河と2000メートル級の山々が連なるインドとミャンマーの国境地帯。今から73年前、日本軍はこの国境地帯を越えインドにあったイギリス軍の拠点「インパール」の攻略を目指した。しかし、誰一人としてその地を踏むことが出来ず3万とも言われる将兵が命を落とした。歴史的敗北を喫した戦場で何があったのか。新資料と新証言でその全貌に迫る。

NHKスペシャル「インパール作戦」NHK総合 2017年8月15日(火)  後7:30【弊社コーディネート担当番組(ミャンマー側)】

いよいよ明日放送されるNHKスペシャル「インパール作戦」

ミャンマーにて、20年以上前から慰霊ツアー手配や番組リサーチなどで多くの関連施設や場所を訪問、関係者にお会いしてきました。

インパール作戦に参加されていた旧日本兵の方、当時日本兵と恋中になったミャンマーの方、死ぬ前に家族に戦時中恋中になったミャンマーの方を内緒で探しに日本から来られた日本人の方、日本兵に弾圧されたミャンマー方 などなど。戦後、日本人として初めて訪れることになった場所の訪問やリサーチ、遺骨探しで見つかった遺骨を日本大使館に届けたりと、戦後生まれの日本人として、戦争関連によく接している日本人の一人と思っています。
これら伝えていくことが、今ミャンマーで事業をさせて頂いている一つの理由だと勝手に解釈もしています。

私は21年前に自らの意志でこの地に来て事業をして生活しています。

自分がこの地で死んだらどうして欲しいだろうと考えてみました。
遺骨の一部だけ日本に。と考えてはいます、
自分の意志で来てもそう思うのだから、命令で当地に連れて来られお亡くなりになった方は骨だけでも日本に帰りたいに違いないと思います。

遺骨収集が2年前から再開されました。以前からミャンマー国内で遺骨に直面していたこともあり、待ち望んでいたことです。ただ、この地の仏教徒は輪廻転生の思想が強く、死んだ骨というものはあまり意味を持っていません。ですので、骨も死んだ後はゴミとして扱われます。
ヤンゴンにも火葬場はあります。仏教の方は死ねば、そこで焼かれるのですが、焼いたら終わり。骨は拾いません。ですので、棺の中には多くの人の骨が混じっています。
(私は社員に、焼く時は他の人の骨を掃除してから焼いてくれとお願いしています。2万チャットでできるそうですので・・・(笑))

戦後72年経過し国内での遺骨収集は困難を極めています。そこで、自分も骨が見つからないところで死んだらどうなるかあと考えてみました。

骨は日本に戻らなくてもいいから、このミャンマーという地で活動していたことだけでも知って欲しいなと感じました。できれば慰霊して欲しい。でも贅沢は言わないので、その軌跡だけでも知ってもらえたら成仏できるかな、と。(笑)

インパール作戦でこの地で犠牲になった方々全員の遺骨を日本へ持ち帰るのが現実的ではない状況で、この地に起こった出来事を日本の方々に知ってもらう、できればその地に足を運んで鎮魂してもらう。それが犠牲になった方々への成仏につながるのではと思っています。

そういった意味でも今回NHKスペシャルという形で「インパール作戦」の放送が流れること、そしてそれに関われたことに感謝します。

【弊社コーディネート担当番組(ミャンマー側)】
NHKスペシャル「インパール作戦」【3分動画】
【総合】8月15日(火)  後7:30
相手の戦力や兵站を軽視した無謀な戦いで甚大な死傷者を出し、旧日本軍の体質を象徴的に示したとされる「インパール作戦」。数々のスクープ映像と新資料、証言からなる「インパール作戦」の全記録。
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/trailer.html?i=11217

MYEIK(ベイ)日本人墓地

少し前の話ですが・・・。
昨年2016年11月にMYEIKに旅行しました。
その際立ち寄ったMYEIK(ベイ) 日本人墓地。
ベイは11世紀パガン王朝の南端であったり、16世紀はアユタヤ王朝が占領しヨーロッパとアユタヤ(タイ)の貿易拠点になるなど古くから外国との窓口になった都市です。
日本人墓地には1800年後半の日本人のお墓もあります。
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ベイ日本人墓地のその荒れ果てた姿に目を疑いました。
聞いた話によれば、管理を任せていた方がお亡くなりになり後継者がいないとのこと。
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ということで状況をヤンゴン日本人会に報告。
すぐに対応して頂け、日本大使館に相談。
相談してから約2週間で、ご覧の通り、きれいに整備されました。
さらに将来的にも管理して頂けそうとのこと。
迅速にご対応頂き、本当にありがとうございました。

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【写真提供:在ミャンマー日本大使館】

武山真理子さんの本を読んでみました。

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ベトナム戦争下のサイゴンで死にゆく兵士たちを励ますため踊り続け、1964年からバンコクに通い、現在バンコクで居酒屋「まりこ」を営む武山真理子さんの本を読みました。
有名な方で以前ご紹介頂いたのですが、恥ずかしながら全く知らず、せっかくのチャンスを台無しにしてしまいましたが、ずっと気になっていて、今回、本で勉強してみました。
まず思いだしたのは、戦前、ミャンマーに来られ、ほとんど日本にも戻らず2007年93歳で他界された「えみさん(鈴木考子さん)」。

いずれの方も長年異国の地に長らく滞在することは、周囲が思うほど大変と思っていないように感じました。私はまだ20年ちょっとだけですが、私も何とも思っていません。そして、皆さん、いつも聞かれる質問で「どうして日本ではなく・・・」ですが、本を読む限り、特に理由があって海外生活しているというより、いたって自然にというような印象でした。えみさんもそうでした。

その質問は私もよく聞かれて回答しますが、結局のところ、運命というか自然の流れで・・・が本音かなと。異国の地に長く住み続けることは、自らの意志では難しく、別の意志がないと難しいかなと感じてもいます。

この本読んでいて、何故かとても印象にのこったのが、「からゆきさん」

当たり前ですが、私が今感じている、異国の地で長く滞在するのは何ともないと思うのは、いつでも日本に戻れるからであって、100年前当地に来られた方とは全く違います。まだまだやるべきことはたくさんあります。こう来たかぁ~と。

「からゆきさん」ネットでググってみました。

「鎖国が解かれてから最初にこの国へ入った日本人は、からゆきさんで、明治14年(1881)には既に10人の日本人がビルマにおり、このうち6人が女性、同24年(1891)には69人(うち女性が49人)、さらに同34年(1901)には114人(うち女性は86人)と、常に女の数が男を上回っており、女性のほとんどはからゆきさんで、男の大半は彼女らを監督する者たちだったとみてよいという。
時が経過し、日本政府は「からゆきさん」を近代日本の恥部として大正9年(1920)、海外廃娼令を発布した。」(http://judo.daa.jp/z%20karayukisan.htm

「死の鉄路 泰緬鉄道~ビルマ労務者の記録」を読んでみました。

「死の鉄路 泰緬鉄道~ビルマ労務者の記録」を読んでみました。

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まず、貴重で多くの人に読んで欲しい本だと思いました。
翻訳者の田辺さんがあとがきで書いておられます。「日本人では20万人もの人が戦病死した地であるだけに、体験された方が戦記を書かれている本は数多くあります。しかし、それらは日本人の側の声であって、ビルマ側のものはありません。この本は数少ないビルマ人が書いた本であるが、黒白をつけるものではなく、ビルマ人がそう見ていた。と受け取ってもらいたい」

中身は日本人には耳の痛い部分もありますが、当時の状況を想像してみると、たしかにその通りだと感じる部分は多々あります。当地でリサーチを行い、多くのビルマ人戦争体験者から話を聞いてきた経験からは、しっくりくる内容でした。

戦争は切り取ったところによって状況は変わります。
日本ではよくアウンサン将軍は日本軍が育て・・・という話が出ます。ちょうどこの本の前書きには、1946年12月18日タンビューザヤ軍墓地落成記念式典でのアウンサン将軍の演説があります。「4年前ぐらい前からわが国は戦火に見舞われた。戦火とともに日本の軍国主義たち、それに悪しきファシズムがやってきた」からはじまります。

ミャンマーは日本がイギリスからの独立を支援をしたので・・・と日本ではよく語られる部分ですが、ミャンマーの人からその通り!と言われたことはほとんどありません。また、日本でよく言われる、イギリス時代よりは日本時代がマシだった、というのも言われたことはありませんでした。本の中では「日本兵と仲良くしている、気にいられているビルマ人は優遇されて、その他は別の扱い、イギリス時代の階級社会と何ら変わらない」と語られています。同様なことは私も何度も聞きました。

当時の日本兵と今の日本企業戦士とがダブります。
ミャンマーに駐在している日本の人は大きく二つに分かれると思います。ミャンマー人が好きな人とそうでない人。現地に溶け込み地元の料理を食べる人もいたら、食事が合わない、汚い、電気がない、指示が守れないと文句ばかりいう人。
戦時中もそうだったような気がします。
溶け込んだ日本人には地元の人はサポート。逆に溶け込まない人は・・・。
戦況が不利になり撤退になれば、仲良くしていた人を地元の人は助けますし、そうでない人は想像ができます。そう考えれば、生き残って生還された方は、仲良くしていた人が多い、だから「ビルキチ」みたいな言葉が生まれたのではないのかな、と、この本を読んで感じました。

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ミャンマーの人は日本人が戦時中行ったことを知った上で親日の人が多くおられます。日本人も実際日本人がこのビルマの地でどういうことを行ったのか、それを直視しその上で今のミャンマーとつきあっていくことが大切だと思います。
ミャンマーの人のことを理解することがミャンマーでのビジネスの成功のカギ。
そのためには、戦時中のことから理解していくことが大切なように感じます。
この本、絶版ですがアマゾンでは簡単に手に入りますので、ミャンマーとビジネスしている方はぜひ!

タンビュザヤの世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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泰緬鉄道のミャンマー側出発駅、タンビュザヤの泰緬鉄道博物館前に建立された、世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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モニュメントは元ヤンゴン日本人学校の置田校長先生と岐阜市の願成寺の住職を中心になった賛同者らが、お寺のお布施と置田校長の退職金を利用して白い大理石の発掘から平和の塔を建立、置田校長が個人的にすべてご準備されました。

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体感温度43℃の中、式典は住職のお経の後、置田校長先生のスピーチ。その後、泰緬鉄道建設に関わられ、戦後何度も来緬し慰霊を行われた木下さんからの戦時品を寄贈。今日の泰緬鉄道に対するミャンマー側の理解は木下さんが作られたといっても過言ではないそうです。

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戦地から絵手紙を日本に送られていた、後藤一味さんの絵手紙を拡大したものも寄贈されました(石塚まみさん寄贈)。参列されたミャンマーの関係者の方も、戦時中に書かれた平和を願う後藤さんの絵に驚いておられました。これらは博物館に展示される予定です。

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その後ミャンマー側からは、モン族の伝統舞踏が演じられました。

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式典には正月明けの初日、最も忙しい日にも関わらず新しく就任したモン州首相も参列(前日夜に参加表明)。

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ミャンマーの人は戦争について、あの時代だったから仕方なかった。と話す人が多くおられます。
輪廻転生を信じる仏教徒の方は、今生だけを自分の人生と捉えているのではなく、前世、来生も含めての自分の人生と理解しているのが一因のようです。泰緬鉄道で犠牲になった人は、もしかしたら前世は逆の立場だったのかもしれない。泰緬鉄道で加害者になった人は、来生は被害者になるだろう。うちの社員らと話しているとそういう理解で、日本軍が行ったこともある程度受け入れているように感じます。

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平和の塔の除幕式では、置田先生から、これは新たな出発式であるという挨拶がありました。「今回は平和の塔を建てるのが目的ではなく、平和の教え自他平等の精神を広めるために第一歩だったと感じています。(置田校長)」「自と他は一枚の紙の表裏のように、常に分けることのできない一つ、絶対に分けてはならない一つ」と塔には記載されています。
まさに、カンチャナブリでも感じた、加害者と被害者は表裏一体。泰緬鉄道はもともとイギリスが作ろうとした。戦後、日本兵はシベリア鉄道建設に連れていかれた。等々。どの時代で切り取るかで、加害者と被害者が変わってきます。
ミャンマー的な発想は、まさしく平和的な発想だと感心しました。

そんな発想が、今年1月に完成された泰緬鉄道博物館にも現れています。泰緬鉄道建設の説明は、「ミャンマー繁栄のために参加した」から始まります。泰緬鉄道博物館のオープニング式典には、鉄道建設に関わった木下さんを日本人としてただ一人、ミャンマー政府が招待しました。戦後何度も慰霊に来られたご尽力につきるのですが、それを政府として認めたことこともすごいことだと思います。

<映像はこちら>

https://www.facebook.com/488909774619574/videos/521523598024858/?video_source=pages_finch_main_video
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もちろん泰緬鉄道建設について、納得できない人が今も多くおられると思います。最難関だったと言われるヘルファイア・パス(HellFire Pass)を訪れたときは、まだ成仏せずに掘り続ける人がいるようにも感じましたし、ミャンマー国内でも日本兵の霊が出るのは今も日常茶飯事の出来事です。

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「被災地、タクシーに乗る幽霊 東北学院大生が卒論に」(朝日新聞)http://digital.asahi.com/articles/ASHDY737QHDYUNHB00B.html という記事を思いだしました。「死んだと納得したら霊は消えていた」とあります。

人生は時代によって様々なことが起こります。特に戦争は個人ではどうしようもないこともあります。しかし、起きてしまった出来事を受け入れ納得する。それが来生にもつながり平和につながる。それを理解するために、この10日間があったのかなぁ。とそんなことを感じながら、夜中ヤンゴンに戻る車の中で考えていました。

ミャンマー。いろいろありますが、やはりこの国の国民はすごいです。

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追伸:泰緬鉄道博物館は写真が数点並べていますが、展示品が圧倒的に少ない状況です。ただ、資料は、連合軍側からのもの、日本軍からのもの、ミャンマー側か らのもの とそれぞれが一緒に展示されています。日本政府としてインフラ整備にODAを拠出するのもいいですが、資金の一部をこの施設 のために協力してもらえれば、より発展的な日緬友好につながるのではないでしょうか。

新年の挨拶ー朝礼にてー

昨日1日遅れで事務所に到着。朝礼で話した新年の挨拶を自分も振り返れるように書き残しておきます。ほんとはもっと長かったですが・・・。

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水祭り期間中はスタッフらとカンチャナブリに行きました。
もともとはダウエイ→カンチャナブリ→ビエンチャンに行く予定にしていましたが、色々な出来事があり、カンチャナブリ4日間滞在し、ビエンチャンにもバンコクにも行きませんでした。(行けませんでした)
カンチャナブリではふとした思いつきで泰緬鉄道博物館のツアーに参加しました。設立当時から働いているタイ人マネージャーがガイド。彼女は普段ガイドはやらないのに当日突然ガイドするよう上司から伝えられました。私たちが初めてお会いしたときは、「あなた達は何者ですか?」と逆に質問されました。多くの人が亡くなったヘルファイアー・パスでは謎の虫が大量発生。私だけその虫に噛まれ突然痛みが出たりしました。泰緬鉄道に関わり、戦後尽力を尽くした日本人の銅像を撮影しようとしたら、突然カメラが作動しなかったり、泰緬鉄道関連の映画をみたら、どうやっても画像が乱れたり、と色々なことが起きました。

カンチャナブリに滞在中には、泰緬鉄道の終着点であるタンビュザヤの平和の塔の式典に突然誘われ、正月明け初日でしたが不思議な縁を感じ、みなさんには迷惑をかけましたが昨日参加してきました。

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この水祭り期間中の体験を通して気付いたのは、多くの人が(目に見えない人も)我々に期待をしているようです。そして応援してくれています。ですので会社もどんどん大きくなっています。我々の仕事は、お金儲けだけの仕事はなく、多くの人々を幸福にする仕事だと自負しています。

大きくなったから、有名になったから驕ることなく、謙虚さを忘れず努力を続けることが大切です。

我々には多くの課題やミッションが日々与えてられています。それは会社=働く社員、つまり皆さん一人一人にミッションを与えられているのと同じです。ミャンマーは新政権が動き始め新しい時代に入りました。そしてJ-SATも新しい時代に突入しています。連日、他の会社に比べたら忙しいし大変かもしれません。世の中の出来事、目の前に起きることはすべて理由があります。必要必然です。今この場(J-SAT)にいる理由を考え、感謝し、一人一人が与えられたミッションを感じ、新しいJ-SATを皆で作り上げていきましょう!