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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

今年も国立ヤンゴンチミダイン盲学校から夕食招待されました。

今年も国立ヤンゴンチミダイン盲学校から夕食招待されました。

今年も視覚障碍者が働くマッサージ店 「GENKY」 の売り上げ運営し、GENKKYスタッフらが指導する「社会人向け視覚障碍者マッサージ育成コース」を盲学校で行います。
今年で9回目となります。

その感謝という意味で、今年も盲学校から夕食をご紹介受けました。
昨年は、この夕食会からブランドサッカーへとつながりました。
今年はというと、、、今年もとても興味深い会合となりました。

もともと視覚障碍者マッサージがミャンマーにやってきたのは95年頃。
私費ボランティアで、ある日本人が盲学校にきて半年間マッサージ技術を5名に教えたそうです。うち1名は今もうちのGENKYで働いています。

今回一緒に食事をしたのはその5人のうちの一人、タンゼンさん。

彼のこれまでの人生の道のりは非常に興味深いものでした。

彼はもともと軍人で、20歳の時に戦地で地雷が爆破し、その破片が目に入り全盲になりました。負傷後ヤンゴン郊外の病院に入院、戦地で突然視力を失った彼は、人生に絶望し、何度も入院していた4階から飛び降り自殺しようと考えたそうです。当時の看護師が、生きてるだけでありがたい。生きてることに感謝しないといけないと何度も励まされ、ヤンゴンチミダイン盲学校を紹介されました。この学校は設立100年以上の歴史を持ちます。

彼はチミダイン盲学校を紹介され、1975年に入学しました。
入学すると、彼は一人の全盲の先生に出会いました。
彼は全盲ですが、籐製品を作るスペシャリストで視覚障碍者の生徒にその技術を教えていました。結婚もし子供も4人いました。全盲なのに家族を作っていることに感銘を受け、生きる希望を再びもち、自分も家族を持とうとがんばったそうです。

ちなみに、その先生の4人の子供のうちの一人、アウンソーウィンさん(写真左)も今回食事会に参加しました。彼はボランティアで父親の仕事を盲学校で子供のころから手伝い、その後盲学校に就職、現在は副学長として働いています。

タンゼンさんは運動神経がよかったことから、パラリンピックの選手にも選ばれ82年には日本にも競技で訪問したことがあるそうです。

そんな彼が95年に視覚障碍者マッサージに出会い、そして学校内で細々とマッサージを続けていました。そこに2008年私が盲学校にやってきたそうです。

2008年に私がGENKYを設立しようと決意し、当時の校長にマッサージ師数名集めてもらうことを依頼したとき、彼にも声がかかったようですが、彼は参加せず、その後シュエチャーというレストランを経営するところがGENKY同様、視覚障碍者マッサージ店をすることになり、そちらで働くことになりました。

2009年に私が、盲学校に通えず大人になってしまった視覚障碍者の方々のためのトレーニングスクールを開講することを決意し、その開講式を迎えた日、彼もその場にいたそうです。
その時、私が開講式のスピートこう話したようです。

「マッサージ技術を覚え、みなさんが独立するためのコースです」

それまで10年以上マッサージを学校内でやってきて、まさか学校外にお店ができるようになるとは夢にも思わなかったそうですが、そのときの私の言葉に感動し、それを心の支えにがんばってきたそうです。

そして3か月前。彼はついに独立を果たしたそうです。お店の名前は最初にマッサージを教えてくれた日本人への感謝を込めて彼の名前。(今は他界されているそうです。)

彼の年齢は現在61歳。4人の父親でもあります。

店のオーナーは大変で、最近は忙しく、家に帰れず店に泊まることが多くなってると、嬉しそうに語ってくれました。

GENKYができたのち、視覚障碍者マッサージがミャンマー全国に普及し、今では全国で100店舗以上できました。「視覚障碍者が働くマッサージ店」というだけで客が集まるまでにブランディングにも成功しました。

ただ、少し心配なのは、視覚障碍者を雇用するばかりで、育成を考えてくれるとこが少ないと校長は嘆いていました。

このマッサージコースの修了証書があれば、どこでも就職できる力があるようで、マッサージコースに参加したいと全国から候補者が集まるようになりました。ただ、教える指導員に限りがあるので、すべて受け入れることができません。数名は両親とヤンゴンにやってきて落胆して地方に戻るそうです。

まだまだやるべきことは山盛りですが、今回もたくさんのやる気を頂いた食事会でした。