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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

ヤンゴン日本人墓地での納骨式

昨年永眠された稲田 清さん(元 安兵団野砲兵第53連隊第7中隊所属)の納骨式にお邪魔しました。
生前、稲田さんは「自分の人生はビルマで終わっている。生きて帰れた第二の人生は慰霊に尽くしたい。」と話されていたそうです。
戦後ビルマで初めて行われた日緬政府合同遺骨収集団に加わり、その後毎年1~2回慰霊に来緬されておられました。
戦時中、自らの腕の中で亡くなった戦友や自ら遺骨を埋めた戦友の場所を記憶し、戦後それらの場所を回り、慰霊を行っていたそうです。また、渡航許可が許す限りミャンマー全国を回られていたそうです。
娘の幸子さんに残された遺言は、「自分の人生はビルマで終わっている。死んだら分骨してビルマに埋葬して欲しい」とのことで、今回、ヤンゴン日本人墓地にお墓が作られ毎年訪れていたこの季節に幸子さん、そして孫にあたるその息子さんの憲佑さんが参列して納骨式が行われました。
遺言には日本人墓地に埋葬して欲しいとは語っておらず、シッタン河に流して散骨し命を全うしたい。と伝えていたそうですが、いつもお世話になっていたミャンマーの方々が今回日本人墓地にお墓を作る努力をされたそうです。
「ミャンマーの方々の暖かさ、人間の深さ、生前での父だけでなく、亡くなったにも関わらず、まだその思いを継いでくれ感謝でいっぱい。父も安心して眠れます」と幸子さんは語っておられました。
「ビルマの人々は戦時中自らの食料も不足しているのにも関わらず、日本兵に米を自ら持ってきてくれたり本当に親切にしてくれた。」父親である稲田さんから、幼い頃からビルマ戦の話をよく聞き育ったそうです。また、辛い事、悲しいことよりも、ビルマの人々のやさしさの話をよく話されていたそうです。
そのような経験から、稲田さんは戦後、戦友への慰霊だけでなく、敵であった連合国の人々、そしてビルマの人々など皆に対して慰霊を行っておられたそうで、タウンダーに自らパゴダを建設、学校などに寄付をしてこられています。
3回目のミャンマー訪問となった孫の憲佑さんは今年高校を卒業して春から大学生。「ビルマの人の暖かさなどは祖父を通して見て聞いてよく知っています。母と同じく実際の戦争を知りませんが、この地に来ると祖父が銃をもって戦っていた風景が想像でき、戦争を身近に感じることができます。これからは自分達で祖父の意思を引き継いでいきたいです。」
と語ってくれました。
稲田 清さんのご冥福お祈り致します。

ビルマ戦で亡くなられた方々の遺骨を早く日本へ帰してあげて下さい。

GENKYの視覚障害者スタッフが自ら稼いだお金を使って僧侶を店にお呼びしお経をあげてもらいご馳走しました。

経営陣やスタッフ、国立盲学校の校長先生や社会福祉省の局長、店によく来て頂くお客様なども集まり朝5時半から説教とお経。
食事終了後は校長先生や担当官が視覚障害者スタッフと親子のように最近の話や日常生活を語って、スタッフらは笑ったり説教されたりの楽しいひと時を過ごしていました。
ここの政府は日本政府や一部日本人から色々言われていますが、日本政府の局長レベルがこれと同じことができるのだろうか。と。

少なくとも官僚レベルはこの国の方がよっぽど民主的なのではと感じることも多いです。といっても日本の局長レベルの人とお会いすることなどまずありませんし、どんな生活しているかも知りませんが。
もう1年になります。私が野ざらしの日本兵と思われる遺骨と遭遇したから。
遺骨は日本政府しか日本へ持ち帰ってはいけないという大原則のため、未だ日本に戻れない状況が続いています。ここの政府からは持ち出してもよいとなっているのですが。
他国の批判をする前に、まずは自国を見つめ正してもらいたいものです。

バルーチャン水力発電所と日本落日

ミャンマーの新聞でバルーチャン水力発電所の50周年記念という特集記事が2日続けて掲載されました。本日2010年4月1日が記念日とのこと。
バルーチャン水力発電所は日本の戦後賠償第1号の事業であり、1982年には第一発電所への円借款供与、1986年には第二発電所への円借款による能力増強工事を行うなど日本とミャンマーの関係を象徴する案件であり、建設コンサルティング会社と建設会社が組んでODAを実行する後のモデルになった第一号と言われる、日本にとっては象徴的な発電所です。
(1954年4月にビルマ政府と商業ベースでの契約書に調印。日本の建設業にとって戦後初となる海外工事。鹿島建設:http://www.kajima.co.jp/news/digest/dec_2006/kiseki/index-j.htm)
そして2003年には施設・設備を改修するため日本の無償資金協力する予定が欧米の圧力により停止。以降、日本とミャンマーの関係が後退するようになったとも言われ、日本とミャンマーの関係には深く関わるバルーチャン発電所。
バルーチャン水力発電所の第三発電所には1年近くも前から中国人技術者が頻繁に立ち入りしており、すでに作業を行っているという話も聞きます。第三発電所は日本が調査を行ったにも関わらず・・・。
欧米は政治問題を挙げて色々発言していますが、一方でミャンマー国内への影響力を着々と強めており、そういった現場を頻繁に目撃、耳にします。
日本政府といえば、人道支援が・・・の一辺倒。他国のようにしたたかに戦略的に動いておられるのかわかりませんが、ミャンマー国内における日本の影響力低下が著しいのを肌で感じる日々です。
トングー・ロード―ビルマ賠償工事の五年間 (1963年) (岩波新書)を読みました。
日本人が命を懸けて作ったバルーチャン発電所も今や中国のバルーチャン発電所となろうとしています。
戦時中、日本軍上層部の一部は撤退寸前までメイミョ(ピンウールイン)に芸者を呼び寿司を食べていたと、元日本兵の方から聞きました。発電機が回り、エアコンが効いた事務所と自宅を往復し、ヤンゴンやネーピードだけを往復している方々が中心になって繰り出されているような日本の今の対ミャンマー戦略。
65年前の悪夢の再現にならぬよう、宜しくお願い致します。

遺骨収集

遺骨収集してきました。

遺骨が表面まで出てきて一部は流れ出している状況でしたのですべての遺骨収集はできませんでしたが可能な限りは収集してきました。
遺骨は日本大使館の方に一時保管されることになりました。
一日も早く日本の方へ帰国できるよう日本政府及び関係者の方々何卒宜しくお願い申し上げます。

これが残る村です。

日本兵の遺骨と日本国政府

以前このブログでも書いた野ざらしの状態にある日本兵の遺骨。
今夜からその遺骨収集に行きます。
日本政府へ収集して欲しいようお願いしたが時間だけが経過しビルマ戦線で日本のために戦った方の遺骨は野ざらし状態。
この地で生活する日本人として、早急に遺骨収集を行いたいと思いミャンマー政府からの収集許可申請に現地やネーピードにスタッフを何度か派遣してようやく許可を取得。経費はもちろんすべて自腹。
で、日本政府から日本大使館の方に遺骨は保管して欲しいという依頼があったため、昨日今夜からの遺骨収集を迅速に行うための簡単な書類を発給して頂くよう依頼したら、前例がないから発給できないという短時間で結論が出された簡単な回答。
本来なら誰の仕事やねん!日本のために亡くなった日本人の遺骨が野ざらしになっている状況を知った上でも日本国はこんな対応なのか!と昨日は久々に頭にきました。
こっちは仕事が詰まっていますが収集できていない状況から新年を迎えたという気持ちになれず、一日も早く収集させて頂きたいので今夜から車中2泊の強行スケジュール。
もちろん自腹で行くだけです。
ちょうど年末から年始にかけて「海嶺(三浦綾子著)」を読んでいました。
江戸時代に船が難破し1年2ヶ月漂流しアメリカに上陸。生き残った3名が多くの人の助けをかりて5年ぶりに故郷を目の前にするが、その日本の対応は砲撃。いわゆるモリソン号事件。結局彼らは日本に戻ることはできず「お上に捨てられた・・・」と嘆きます。
戦時中このビルマの地で命果てた多くの日本人。自分の意思で今現在この地で働く私も、万一死んでも骨は日本へ・・と思います。自分の意思でなく戦争でこの地に赴きそして命果てた日本の方々なら尚更日本へ帰りたい気持ちは今でも強いのではないでしょうか。
今の時代でも「お上に捨てられないといけないのでしょうか???」

日本兵かもしれない遺骨の放置


軍事施設内部ということで外国人が訪れることは少ない場所の僧院に用事があり先月訪ねました。そこの僧侶から、最近雨が降り土砂が削れて日本兵の遺体と思われる骨が出てきてるがどうしたらよいかと相談受けました。
この場所は戦時中イギリス軍と日本軍と激しい戦闘が行われた場所で、最近も不発弾や銃弾が見つかったようです。

ビルマの人はパゴダの近くに遺骨は埋めないとのことで、イギリス兵か日本兵の遺骨だろうとの話。戦時中は多くの日本兵が犠牲になったと前任の僧侶から聞いているそうで、かなりの確率で日本兵のものだろうとのことでした。
ちなみに国境地帯でもなく観光客も普通に訪ねることができる馴染みのある街の郊外。
ミャンマーに関わる人だけでなく戦後60数年経過した今でもこのような状況であること多くの人が知る必要があるように思います。

インパール作戦・補給なきコヒマの苦闘

日本で夏頃に放送されていた「インパール作戦・補給なきコヒマの苦闘~新潟県高田・陸軍歩兵第58連隊~」 が最近NHKプレミアムで放送されました。
番組取材でインド国境へ行った時の情景、当時の様子を語る村人達が思い浮かびます。
政府からの許認可が必要で行くのは難しい場所ではありますが、一人でも多くの日本人に訪れて頂きたい地です。

ビデオ/DVD「太平洋戦争(全10巻)」

ビデオ/DVD「太平洋戦争(全10巻)」は、太平洋戦争の事実を検証しながら、命をかけて戦った将兵たちの実情に迫る映像中です。
当時のニュース映像や新聞記事、国の運命を握る電文などの戦史資料に加えて、将兵の手記や手紙なども収録しています。
第8巻は「インパール作戦」
●ビルマでの日本軍統治●大東亜共栄圏●インパール作戦●大本営の作戦指導●連合軍のビルマ反抗作戦●日本軍陣地跡●日本軍の撤退●陸軍刑法●ミートキーナの戦い●拉孟日本軍守備隊の玉砕●騰越日本軍守備隊の玉砕 など
第15軍司令本部やインパールへ向かうインド国境地域など第8巻の一部は弊社が撮影コーディネートさせて頂きました。
お問い合わせ ユーキャン出版局 電話 03-3378-0770

チンドウィン河

今も多くの場所が外国人の渡航が制限されているチンドウィン河流域。
タウンダットやシッタン、パウンビンなどインパール作戦に参加された方や遺族の方々が訪れたい場所として、弊社にもこれまで何度も問い合わせがあり、何度かご手配させて頂きました。
とはいえ、弊社スタッフは何度か行っておりましたが私自身はまだそれら地に行ったことはありませんでした。
今回ナガ訪問のためのホマリン行きのミャンマー航空の相次ぐキャンセルは、チンドウィン河を通って行きなさい!との暗示と勝手に理解し英霊にお祈りしてきました。
ナガに行ってみて、ナガの文化よりも60年前になぜ日本軍はこんなところまで来ていたのかなあ。と正直そちらの印象の方が強かったです。
(写真はタウンダット)

大熊幾世さん その3

取材中は絶対ありえないような偶然がよく起きます。
大熊さんの取材の時の出来事。タウングーで戦前の写真館「ニッコウ」を探しているところを撮影中。当時の写真を地元の人に見せながら聞いていたところ、偶然通りかかった人が「この写真私の家にあります」と話してかけてきました。何と全く同じ写真をお持ちだったのです。話を聞けば、タウングーの街は戦火が激しく多きが燃えてしまい、彼女の家も燃えてしまったそうですが、母親がその写真だけは戦火の中持ち出し大切に保管してきたそうです。
60年経って再会したもはや偶然とは言えない場面でした。
(写真提供:島村浩さん)