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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Centre)の1日歴史ツアーに参加して感じたこと。

カンチャナブリ市内にある泰緬鉄道博物館の1日歴史ツアーに参加しました。朝8時半にホテルに迎えに来てもらい、まずは泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Center)をじっくり見学。

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泰緬鉄道博物館創設当時から働くマネージャーが専属ガイドとして特別に終日案内してくれました。彼女はほとんどガイドとして一般客を案内しないそうですが、突然指示され本日案内することになったそうです。

タイ人・日本人・ミャンマー人のこのグループらしく、それぞれの国の立場での意見があり、認識の仕方 (教えられ方)も違っていて、中身の濃い1日となりました。

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その後、収容所跡や当時の駅跡、どのように捕虜が現場に送られていったのか等、普通のツアーとは全く違い、彼女が持参した昔の貴重な資料を見ながら、彼女自身が多くの証言者からヒアリングした内容などとともに詳細説明してくれました。

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朝8時半からスタートし、終わったのは18時過ぎ。当地を訪れる方には是非お勧めのツアーです。

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いくつか回った後、旧泰緬鉄道のナムトク線に乗車。

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ハイライトのティンバートレッスル橋(アルヒル桟道橋)、全長約300mS字カーブの木造橋は2週間で作り上げたということには驚きました。

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ランチ後はヘルファイアー・パス博物館(サイヨーク)。

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Hellfire Pass では、竹の松明で毎日18時間労働し切り立った崖を素手で切り開いた痕がいくつも残されています。

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慰霊碑の先は木の橋(今は朽ちてありません)があり、その先にずっと続いていきます。泰緬鉄道の8つの大きな橋のうち、タイ側は1か所、ミャンマー側は7か所。ということは、ミャンマー側はすごい状況であったことが想像できます。

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博物館には泰緬鉄道に関わった国別強制労働者数がありましたが、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、アメリカ人らが61,800人参加、うち12,619人死亡【POW/捕虜】、インドネシア人、マレーシア人、ベトナム人、ミャンマー人などアジア人【SLAVE/奴隷】が20万人参加、うち8万5千人が死亡。(ミャンマー人は18万人参加し4万人死亡と記述)
にも関わらず、犠牲になったアジアの人々の墓地や慰霊碑だけでなく、記載やデータもほとんどない現状。しかも、アジアの人々を区別して【奴隷】と記載。

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タイ人のマネージャーが長年この仕事を続けているのも、タイではこの史実を学校では詳しく教えておらず、機関車や橋を背景に写真を撮ったりしているだけなのは悲しく思い、皆に知ってほしいから働いていると話していました。

ミャンマーでも詳しくは学校で教えていないそうです。ミャンマー人観光客が正月休暇中ということもあって多く訪れており、記念撮影をしていましたが、この建設に関わった全人数の約60%、亡くなった人の40%がミャンマー人だったということを理解しているのでしょうか。16ヶ月で10万人が亡くなったということは、毎日200名以上亡くなっていた計算です。

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泰緬鉄道は、もともとイギリスが植民地時代に敷設しようとした路線。当時、もし労働者が確保でき、建設工事が始まっていたら今の歴史とは全く逆の立場。

日本人はというと、戦後日本人捕虜ら日本人107万人はシベリアに輸送され鉄道建設や森林伐採、炭鉱労働で約34万人が犠牲になりました。

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ミャンマーの人々は日本軍が統治していた時代のことを日本よりは詳しく教えており、授業で勉強したときは、日本人は戦時中どれだけミャンマーの人に対して悪行行ったひどい人だと感じる人が多いようです。ただ、戦後の日本による支援や日本人と直接触れたことによって、歴史も受け入れた上で多くの人が親日家になるそうです。

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映画『レイルウェイ 運命の旅路』をみました。実際にタイの捕虜収容所で、憲兵隊の通訳を担当していた永瀬隆さんという方、恥ずかしながら知らなかったのでネットで調べてみました。

「永瀬さんは旧日本軍への憎しみを持つ元捕虜のの中、何度もの英国の退役軍人会などに手紙を書き続け、76年10月。23人の元捕虜がクワイ河のかかる橋の上に集まった。和解に向けた第一歩は元捕虜の批判も巻き起こした。「旧日本軍と和解するのは裏切り者の行いだ」。旧日本軍の間にも永瀬さんの活動への反発は強かった。それでも永瀬さんは地道に元捕虜たちとの和解活動を続けていく。「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(3)巡礼:http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140112-00031506/

映画『レイルウェイ 運命の旅路』では、お互いが当時を振り返り、そしてその事実を知り理解し、「和解に尽力してきたあなたは誰よりも勇気がある。カンチャナブリーで起こったことを忘れはしない、でも、あなたのことは心から赦そう、憎しみはいつか終わらさなければ」。二人はよき友となり、2011年、永瀬の死まで友情は続いた。2012年にエリックが亡くなり、パットが見守った。と終わります。

ここに大切なヒントがあると思います。何事も人それぞれに、価値観・歴史観が異なるので、歴史の伝え方も違う。それぞれ一方の主張だけだといつまでも平行線になってしまう。この泰緬鉄道博物館も同じ。70年経った今もヘルファイアー・パスには日本軍に対し憎悪を憎しをもった人々が残されているように感じました。当時を振り返りお互いが理解しあえる、未来につながる機会が必要です。

今月から日本兵の遺骨収集が再開されたから今こそ、どうして人々は死んでいったのか。そしてその人達に関わっていた人達はどうだったのか。相手国(連合国側)はどうだったのか。
ティラワに巨額な支援をする前に、日本は戦争の史実を日本人用だけのものではなく、現地の人にも、未来を支える日本人にも、イギリスやインドの人にも、史実を恐れずきちん伝える博物館などを建設すべきだと感じます。

例えば、ミャンマー政府、日本政府、インド政府、イギリス政府、ミャンマー民間、日本民間、イギリス民間、インド民間、それぞれが関わり納得でくるような博物館があればいいのかもしれな。そういう歴史博物館を作ることも重要な支援ではないでしょうか。

ついに遺骨収集の法律が施行されたので、写真とともに20年間を振り返ってみました。

太平洋戦争で亡くなった戦没者の遺骨収集を加速する法律が、今月1日、ついに施行されました。

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この方は40年以上前に行われた第一回日本政府による遺骨収集の実現に、当時ビルマ政府ホテル観光省の役人として尽力をつくされた故マウンテン大佐です。彼がいなければ当時遺骨収集は実現しなかったという話を聞きました。彼にヤンゴンに残される戦時中の建物や当時どのように利用されていたか、案内してもらいました。その一つが今のチミダイン国立盲学校で、それが縁でGENKY視覚障害者支援につながっていきます。彼に合わなければGENKYはありません。といことはミャンマーで視覚障害者マッサージとう職業が定着していないということになります。ほんとに不思議ですねー。

ミャンマーで生活していると、特に番組制作のリサーチなど20年近く行っていると、遺骨には度々遭遇していました。ですので、ロケハンやリサーチのときには日本の線香をいつも持参。家に戻るときは家に入る前に塩を振っていました。
実は・・・以前の事務所にもどなたかおられましたので、事務所入口には盛り塩をしていました(笑)。私が日本などに出張する時に決まって事務所内で不思議な現象が起きていたので、不在中を守っていてくれてるのだと勝手に思っていました。いつも助けて守って頂いています。ありがとうございます。といっても、私は全く霊感ありませんので見えません。

遺骨は勝手に日本に戻すことはできず、日本大使館に遺骨とともに遺骨があるだろうリストを作成し預かって頂いていました。
そんな中、ついに先月日本に戻ることができるようになりました。

この法案が通ったのを受け、ようやく帰国が叶うのと同時に、70年以上前にこの地で何が行われたのか、という歴史がこれから日本でニュースや番組になり人々の注目を浴びる。学校で教えられている社会の教科書では「インパール作戦では」と一言にまとめられてしまっている、その文脈の中の事実が再び注目を浴びる。日本の支援、企業進出が本格化する今こそ、それが大切な気がします。

ということで、残っている写真をざっとまとめようとしたら、多くの写真が紛失(涙)残っているものだけ、コメントつけてご紹介いたします。

みなさん、ついに帰国開始です!

こちらインド国境タム郊外にあるパンタ村。ここからインパール向かう場所で、40年前、第一回遺骨収集団が来られた時に案内した人が見つかり、色々話しを聞きました。

インド側で負傷した日本人用の野戦病院があったが、重症で安全な場所まで行けない負傷兵が多かったこともあり、隣に墓地を併設していたそうです。そんなこともあり、掘ればいくらでも遺骨が出てきたそうですが、途中でスコップが人々の方に勝手に動き始めてしまい危険になり、途中で断念したそうです。私が訪ねたのは2005年。この場所は当時インド側が政情不安でしたので時折銃声が聞こえる現場でした。ミャンマー兵に周囲を銃で護衛してもらいながら訪問しましたので、その第一回遺骨収集以来初めて訪ねた日本人でした。

シュエチン村にも遺骨がいくつかありました。この時は遺骨持ち帰れませんでした。

こちらコンタン村

コンタン村には日本の軍票を作る造幣局があったと地元の老人に聞きました。

 

ここも思い出に残るアッロエ村。ここでは当時、日本軍とイギリス軍が24時間ぶっ通しで戦った激戦の地と聞きました。
このときは番組リサーチで行ったのですが、その後番組ロケでも訪問予定だったのですが、理解不能な不思議なことが次々起こり、結局取材できない地となりました。当時は、多くの人が戦死した地なので、きちんと僧侶をお連れしてからの方がいいのでは、と取材班に理解して頂き諦めた覚えがあります。

この写真は2009年イラワジ川の対岸にある有名なクレ高地。

当時を知るドウ・ケンウー。ここも多くの慰霊に日本人の方が来られていたが最近はほとんど来なくなり、慰霊碑も荒れ果ててきていると嘆いていました。あれから7年もたち、当時を知る人ももういないと思いますので、忘れ去られていくのでしょうか。

ミャンマー中部の村、タウンレド村。結局、番組にはなりませんでしたが、この地で襲撃を受けたが生き残った旧日本兵の方が訪問したいということで、この地を探しました。これは銃痕の後。

2009年に訪問したタウンレド。この女性は戦時中、この地に日本軍が駐留していた時に生まれた女性で、名前は駐留していた日本人がつけた。と村人皆が知っている地元では有名な女性でした。村では、これまで多くの遺骨が出てきたそうですが、輪廻転生を信じるミャンマーの仏教徒にとっては骨は大切なものではないので、すべて捨ててしまったそうです。

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ここはメッティーラの郊外。軍施設の中ということで、一般の人は入りにくい場所でしたが、今も銃痕の後が残る建物がありました。

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その前には、今も遺骨が流れ出て着ていました。

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この遺骨は集め日本大使館に預かって頂きました。(2009年)

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メッティーラのゴルフ場にある今は使われていない井戸。ここに自ら命を絶った日本兵がおられる。と案内して頂きました。

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戦時中はマンダレー王宮が日本軍の司令部になっており、その中で日本語も教えていました。その卒業証書。とご本人。いろいろ当時の話を聞きました。

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最後は、2005年に訪問した、ピィのサンペイさん。戦時中日本軍の通訳をし、そして戦後はODAで作られたマツダや日野の工場で働く日本人の方々の様々なお世話や慰霊碑建立に尽力をされました。彼が涙を流しながら当時の日本軍の悲惨な現実を話は壮絶でした。番組はこちら(http://www.ctv.co.jp/chu/lady/2005/0421/

他にもいろいろあるのですが、写真が見つかりません。また見つかったら記録用としても、記載してみたいと思います。

NHKスペシャル 女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦 激戦地の記録~ギャラクシー賞8月度月間賞を受賞!

NHKスペシャル 女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦 激戦地の記録~ギャラクシー賞8月度月間賞を受賞!

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2015年8月13日(木)にNHKで放送された「NHKスペシャル 女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦 激戦地の記録~」がギャラクシー賞8月度月間賞を受賞しました。

弊社は現在のビルマ側の取材コーディネートを担当させて頂きました。
この週は本当に見応えのあるドキュメンタリーが多かったですねー。

「女たちの太平洋戦争」英語版ですが、11月1日から、NHK world で複数回、放送されます。

ヤンゴン日本人学校50年記念祭と今後果たすべき役割。

ヤンゴン日本人学校50年記念祭が大々的に行われました。
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第一部は在校生を中心にし、国立劇場を借り切ってのイベント。

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聾学校や盲学校などの生徒も参加、在校生が編集した過去50年を振り返るスライドショーなど、支えているのは教職員だろうが、一切表に出ず、生徒らが司会、英語・ミャンマー語、日本語を交えた、すばらしいイベントでした。

ヤンゴン日本人学校のすばらしさを改めて実感したイベントでした。

第二部は「石塚まみ」さんの鎮魂ピアノコンサート。

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校長先生から戦争について、石塚さんについての解説があり、そして始まったコンサート。霊感のない私ですが、空気全体がざわつき、そして突然鳥が鳴きだしたり風が吹いたりと・・・すごい雰囲気で感動と一言では表現できないコンサートでした。

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第三部は懇親会。

懇親会の中で少し話してください。と事前に校長先生から依頼されていたのですが、呼ばれていた方々を見てびっくりしてしまいました。
ヤンゴン日本人学校開設当時(50年前)の教員でおられた方、ミャンマーの灌漑アドバイザーとして長年ミャンマー政府のアドバイザーをされていた方、学校校舎建設をされている方、そして私と、すごいメンバーと一緒に、ステージに上がらせて頂きました。

ステージ正面には大使や私もりずーっと長く滞在され学校に貢献されている方を前に、さて何を話そうかと、みなさんはスーツ姿にスピート原稿を持たれていて順番が来るまで思案してました。

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で、私の順番前に、ピィのサンペイさんの話が出てきました。
サンペイさんは、10年ほど前、今回ピアノ演奏して頂いた 石塚まみ さんの番組ロケの際にお会いしていた関係でもあり、私も何度かお会いしています。
石塚さんにとっても印象に残っている方で、それを引き合わせた私がこの場で呼ばれたのかなと ふと思いました。

そして、このロケで思い出されたのは、残留日本兵の吉岡さんのご子息のこと。
ロケハン時では、吉岡さんのご子息は、日本人とも会いたくないしもちろん取材にも出ないということでした。
ところが一転、ロケのときは、そろそろ伝えないと・・・と「自分が日本兵の父親を持つビルマ人として生まれてきて、幼少期から現在までの苦悩」について話されました。
残念ながらそのシーンは放送されませんでしたが、とても印象に残っています。

そのこともスピーチの中で伝えようとしましたが、なぜか途中で言葉が出て来なく、話せませんでした・・・ということで ブログを久々に書こうかと。

来年は戦後70年。すでに戦争経験している人もほとんどいなくなり、番組制作も困難な状況にあります。
語り次ぐべきことではありますが、とはいえ本人から伝えられないのではなかなか伝えていくのあが難しい。

そんなことを考えて、私があのマイクを渡された理由はただ一つ。

「日本とミャンマーの両国関係再構築」

サンペイさんに代表されるようなミャンマーの方は、戦時中から、そして戦後まで90年代後半まで。40代前後のミャンマーの方はまだ数名おられますが、その以前の若い方にはそれらがストップしているように思えます。

今 テレビでは毎朝「おしん」が再放送されています。
ミャンマーで日本人の有名な俳優は誰ですか?と質問したら答えは今でも「千葉真一」「真田宏之」となります。

つまり、ここ20年以上、新しい関係が構築されていないのではと感じます。

「これまでの過去は遺産として、我々若い世代が、次の新しい関係を作っていかないといけない。」

それを言うために私のところに マイクが渡ったのだと感じました。

「前日に参加したのは、国立盲学校の100周年祭。ヤンゴン日本人学校はまだ50周年。これまで50年間は過去の遺産。明日から100周年に向けて、新しく作り上げていきましょう!未来へ!」

そう締めくくりました・・・と思います。ちょっとお酒飲んでからのスピーチでしたので・・・。

最近、私の周りでは、「卒業」というキーワードがついて回ります。

・サクラタワー事務所移転
・GENKY移転
・マッサージ国家資格化プロジェクトのアドバイザー
・15年いたニャウンピンレイプラザからの事務所移転(12月から)
・1年半ぶりに来緬した家族

そして、PTAや日本人会の役員として関わった日本人学校でのスピーチ。

すべてが新しいステージに移行してきている最近の、その集大成という感じの昨晩でした。

ということで、

「まだまだ、やるべきことはたくさんあるから心しておけ!」

と言われたようで

一つ一つ、それらを実行して実績を積み重ね、次の世代に託す。

新たな使命を果たすべく、まだまだ ミャンマーで走り続けたいと思います。

校長先生 本当にお疲れ様でした。

石塚さん コンサート終了後そのまま羽田⇒バンコク⇒ヤンゴン そして そのままコンサートとハードなスケジュールにも関わらず、すばらしいコンサートをありがとうございました。

また一つ、伝説が生まれた夜でした。。。

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「広げよう 世界へ 地球はひとつの家族
輝こう 未来へ 日緬の永遠の絆」

ピィのサンペイさんについてはこちら・・・
http://www.yangonow.com/jpn/magazine/essay/hashimoto/essay01.html

 

ODA関係プロジェクトで駐在されていた橋本さんのエッセイ

先月、日本政府は対ミャンマー(ビルマ)ODAの再開の検討を表明しました。ODA(政府開発援助)はここミャンマーが世界最初の地。
今回、1970年代後半に日系商社駐在員として、ODA関係プロジェクトで駐在されていた橋本さんの貴重なエッセイを掲載させて頂くことになりました。
ミャンマーに訪れる日本人のみならず、多くの日本人に読んで頂きたいエッセイです。
是非ご一読ください。

「サンペイさん往訪」
「日本人戦没者慰霊碑再訪」
「もうひとつのビルマの竪琴」

~橋本裕一さんプロフィール~
1947年(昭和22年)生まれ。現在、大阪在住。
1970年代後半に日系商社駐在員として、ODA関係プロジェクトにてPyu(旧名Prome)市対岸のSinde地区に駐在。
その後、1980年代半ばから後半と、1990年代半ばにも首都に駐在。合計3回、通算10年余りの駐在経験あり。
1988年の民主化騒動を肌で体験、また国家と首都の名前が変更されたのも経験した。

ヤンゴン日本人墓地での納骨式

昨年永眠された稲田 清さん(元 安兵団野砲兵第53連隊第7中隊所属)の納骨式にお邪魔しました。
生前、稲田さんは「自分の人生はビルマで終わっている。生きて帰れた第二の人生は慰霊に尽くしたい。」と話されていたそうです。
戦後ビルマで初めて行われた日緬政府合同遺骨収集団に加わり、その後毎年1~2回慰霊に来緬されておられました。
戦時中、自らの腕の中で亡くなった戦友や自ら遺骨を埋めた戦友の場所を記憶し、戦後それらの場所を回り、慰霊を行っていたそうです。また、渡航許可が許す限りミャンマー全国を回られていたそうです。
娘の幸子さんに残された遺言は、「自分の人生はビルマで終わっている。死んだら分骨してビルマに埋葬して欲しい」とのことで、今回、ヤンゴン日本人墓地にお墓が作られ毎年訪れていたこの季節に幸子さん、そして孫にあたるその息子さんの憲佑さんが参列して納骨式が行われました。
遺言には日本人墓地に埋葬して欲しいとは語っておらず、シッタン河に流して散骨し命を全うしたい。と伝えていたそうですが、いつもお世話になっていたミャンマーの方々が今回日本人墓地にお墓を作る努力をされたそうです。
「ミャンマーの方々の暖かさ、人間の深さ、生前での父だけでなく、亡くなったにも関わらず、まだその思いを継いでくれ感謝でいっぱい。父も安心して眠れます」と幸子さんは語っておられました。
「ビルマの人々は戦時中自らの食料も不足しているのにも関わらず、日本兵に米を自ら持ってきてくれたり本当に親切にしてくれた。」父親である稲田さんから、幼い頃からビルマ戦の話をよく聞き育ったそうです。また、辛い事、悲しいことよりも、ビルマの人々のやさしさの話をよく話されていたそうです。
そのような経験から、稲田さんは戦後、戦友への慰霊だけでなく、敵であった連合国の人々、そしてビルマの人々など皆に対して慰霊を行っておられたそうで、タウンダーに自らパゴダを建設、学校などに寄付をしてこられています。
3回目のミャンマー訪問となった孫の憲佑さんは今年高校を卒業して春から大学生。「ビルマの人の暖かさなどは祖父を通して見て聞いてよく知っています。母と同じく実際の戦争を知りませんが、この地に来ると祖父が銃をもって戦っていた風景が想像でき、戦争を身近に感じることができます。これからは自分達で祖父の意思を引き継いでいきたいです。」
と語ってくれました。
稲田 清さんのご冥福お祈り致します。

ビルマ戦で亡くなられた方々の遺骨を早く日本へ帰してあげて下さい。

GENKYの視覚障害者スタッフが自ら稼いだお金を使って僧侶を店にお呼びしお経をあげてもらいご馳走しました。

経営陣やスタッフ、国立盲学校の校長先生や社会福祉省の局長、店によく来て頂くお客様なども集まり朝5時半から説教とお経。
食事終了後は校長先生や担当官が視覚障害者スタッフと親子のように最近の話や日常生活を語って、スタッフらは笑ったり説教されたりの楽しいひと時を過ごしていました。
ここの政府は日本政府や一部日本人から色々言われていますが、日本政府の局長レベルがこれと同じことができるのだろうか。と。

少なくとも官僚レベルはこの国の方がよっぽど民主的なのではと感じることも多いです。といっても日本の局長レベルの人とお会いすることなどまずありませんし、どんな生活しているかも知りませんが。
もう1年になります。私が野ざらしの日本兵と思われる遺骨と遭遇したから。
遺骨は日本政府しか日本へ持ち帰ってはいけないという大原則のため、未だ日本に戻れない状況が続いています。ここの政府からは持ち出してもよいとなっているのですが。
他国の批判をする前に、まずは自国を見つめ正してもらいたいものです。

バルーチャン水力発電所と日本落日

ミャンマーの新聞でバルーチャン水力発電所の50周年記念という特集記事が2日続けて掲載されました。本日2010年4月1日が記念日とのこと。
バルーチャン水力発電所は日本の戦後賠償第1号の事業であり、1982年には第一発電所への円借款供与、1986年には第二発電所への円借款による能力増強工事を行うなど日本とミャンマーの関係を象徴する案件であり、建設コンサルティング会社と建設会社が組んでODAを実行する後のモデルになった第一号と言われる、日本にとっては象徴的な発電所です。
(1954年4月にビルマ政府と商業ベースでの契約書に調印。日本の建設業にとって戦後初となる海外工事。鹿島建設:http://www.kajima.co.jp/news/digest/dec_2006/kiseki/index-j.htm
そして2003年には施設・設備を改修するため日本の無償資金協力する予定が欧米の圧力により停止。以降、日本とミャンマーの関係が後退するようになったとも言われ、日本とミャンマーの関係には深く関わるバルーチャン発電所。
バルーチャン水力発電所の第三発電所には1年近くも前から中国人技術者が頻繁に立ち入りしており、すでに作業を行っているという話も聞きます。第三発電所は日本が調査を行ったにも関わらず・・・。
欧米は政治問題を挙げて色々発言していますが、一方でミャンマー国内への影響力を着々と強めており、そういった現場を頻繁に目撃、耳にします。
日本政府といえば、人道支援が・・・の一辺倒。他国のようにしたたかに戦略的に動いておられるのかわかりませんが、ミャンマー国内における日本の影響力低下が著しいのを肌で感じる日々です。
トングー・ロード―ビルマ賠償工事の五年間 (1963年) (岩波新書)を読みました。
日本人が命を懸けて作ったバルーチャン発電所も今や中国のバルーチャン発電所となろうとしています。
戦時中、日本軍上層部の一部は撤退寸前までメイミョ(ピンウールイン)に芸者を呼び寿司を食べていたと、元日本兵の方から聞きました。発電機が回り、エアコンが効いた事務所と自宅を往復し、ヤンゴンやネーピードだけを往復している方々が中心になって繰り出されているような日本の今の対ミャンマー戦略。
65年前の悪夢の再現にならぬよう、宜しくお願い致します。

遺骨収集

遺骨収集してきました。

遺骨が表面まで出てきて一部は流れ出している状況でしたのですべての遺骨収集はできませんでしたが可能な限りは収集してきました。
遺骨は日本大使館の方に一時保管されることになりました。
一日も早く日本の方へ帰国できるよう日本政府及び関係者の方々何卒宜しくお願い申し上げます。

これが残る村です。

日本兵の遺骨と日本国政府

以前このブログでも書いた野ざらしの状態にある日本兵の遺骨。
今夜からその遺骨収集に行きます。
日本政府へ収集して欲しいようお願いしたが時間だけが経過しビルマ戦線で日本のために戦った方の遺骨は野ざらし状態。
この地で生活する日本人として、早急に遺骨収集を行いたいと思いミャンマー政府からの収集許可申請に現地やネーピードにスタッフを何度か派遣してようやく許可を取得。経費はもちろんすべて自腹。
で、日本政府から日本大使館の方に遺骨は保管して欲しいという依頼があったため、昨日今夜からの遺骨収集を迅速に行うための簡単な書類を発給して頂くよう依頼したら、前例がないから発給できないという短時間で結論が出された簡単な回答。
本来なら誰の仕事やねん!日本のために亡くなった日本人の遺骨が野ざらしになっている状況を知った上でも日本国はこんな対応なのか!と昨日は久々に頭にきました。
こっちは仕事が詰まっていますが収集できていない状況から新年を迎えたという気持ちになれず、一日も早く収集させて頂きたいので今夜から車中2泊の強行スケジュール。
もちろん自腹で行くだけです。
ちょうど年末から年始にかけて「海嶺(三浦綾子著)」を読んでいました。
江戸時代に船が難破し1年2ヶ月漂流しアメリカに上陸。生き残った3名が多くの人の助けをかりて5年ぶりに故郷を目の前にするが、その日本の対応は砲撃。いわゆるモリソン号事件。結局彼らは日本に戻ることはできず「お上に捨てられた・・・」と嘆きます。
戦時中このビルマの地で命果てた多くの日本人。自分の意思で今現在この地で働く私も、万一死んでも骨は日本へ・・と思います。自分の意思でなく戦争でこの地に赴きそして命果てた日本の方々なら尚更日本へ帰りたい気持ちは今でも強いのではないでしょうか。
今の時代でも「お上に捨てられないといけないのでしょうか???」