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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

大熊さんと鈴木さん

戦前ともにビルマで生活されていた二人。お互い1914年大正3年生まれと同い年。大熊さんは戦争の混乱の中、日本へ帰国。鈴木さんは戦時中もビルマに残り、今現在も元気にヤンゴンで生活されています。
この時が初めてのお二人でしたが、戦前のビルマでの生活に話が盛り上がっていました。
(写真提供:島村 浩さん)

Ma San Myint (まさみさん)

今も深く心に焼き付いているミャンマー人女性Ma San Myintさん79歳。(続けて読むとまさみさんと日本女性の名前のようになります。)2年程前、ある番組取材がきっかけでモールミャインで知り合いました。戦時中彼女が16歳の時日本兵と恋に落ち結婚。現在3人の子供がいます。3人目の子供がまだお腹の中にいる時戦況が悪化し、夫は3人目の子の名前をつけ、必ず戻るといいタイへ向かったそうです。
その後夫は戻られず、彼女の母親はまさみさんが20歳のときに子供と一緒に2階から転落、子供は助かり母親は帰らぬ人となり、医者である父親とともに子供を育てあげました。取材中、彼女はあらゆる質問にも涙一つなく毅然と答えられ、夫は現在まだ帰ってこないが子供3人がいるので幸せです。「そういう時代だったから」と夫や日本に対しては一切不平不満を話されませんでした。
取材が終わり取材班が出て行った後ポツリをこう話されまた。「辛い人生だった‥」そして溜まっていたものが噴出したように号泣されました。

戦前にあった日本人経営の写真館

戦前ビルマ国内にあった日本の写真館を探したことがあります。メモした紙を忘れてしまい正確な数字は忘れてしまいましたが、確かヤンゴンに5件、マンダレーに3件、タウングーに1件、ピィに2件、パテインに1件、モールミャインに2件ぐらいだったような、とにかく結構たくさんあるその数字に驚いたのを覚えています。
戦前ビルマ国内では日本の写真館は品質が高いと評判だったそうで人気があったそうです。今おられる多くの老人に聞いてみましたが皆そのように話されています。
(写真提供:島村 浩さん 戦前タウングーで大熊さんが経営されていたニッコウ写真館)

大熊幾代さん

戦前タウングーでニッコウという写真館を経営されていた大熊さん。2年前89歳という年齢にも関わらず、夜便で到着してすぐビールを飲んでおられた姿が目に焼きついています。

戦前、ビルマへ出稼ぎに来る日本人は多かったらしく、マンダレーには2000人程の日本人がおられたそうです。(現在ヤンゴンには約500名ぐらいの日本人がいると言われていますので今の4倍の人数です!)

カレン族のメイドが家事は一切してくれるので連日イギリス人や日本人仲間でダンスしたり昼間からビール飲んだりマージャンしたりして楽しかったと、つい最近の出来事のように話されていました。ビルマでお金を稼いで世界一周して日本に帰る予定が戦争に突入、混乱の中写真館を従業員に渡し日本へ逃げ帰ったそうです。
昨年大熊さんは他界されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
(写真提供:島村 浩さん)