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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

バルーチャン水力発電所と日本落日

ミャンマーの新聞でバルーチャン水力発電所の50周年記念という特集記事が2日続けて掲載されました。本日2010年4月1日が記念日とのこと。
バルーチャン水力発電所は日本の戦後賠償第1号の事業であり、1982年には第一発電所への円借款供与、1986年には第二発電所への円借款による能力増強工事を行うなど日本とミャンマーの関係を象徴する案件であり、建設コンサルティング会社と建設会社が組んでODAを実行する後のモデルになった第一号と言われる、日本にとっては象徴的な発電所です。
(1954年4月にビルマ政府と商業ベースでの契約書に調印。日本の建設業にとって戦後初となる海外工事。鹿島建設:http://www.kajima.co.jp/news/digest/dec_2006/kiseki/index-j.htm
そして2003年には施設・設備を改修するため日本の無償資金協力する予定が欧米の圧力により停止。以降、日本とミャンマーの関係が後退するようになったとも言われ、日本とミャンマーの関係には深く関わるバルーチャン発電所。
バルーチャン水力発電所の第三発電所には1年近くも前から中国人技術者が頻繁に立ち入りしており、すでに作業を行っているという話も聞きます。第三発電所は日本が調査を行ったにも関わらず・・・。
欧米は政治問題を挙げて色々発言していますが、一方でミャンマー国内への影響力を着々と強めており、そういった現場を頻繁に目撃、耳にします。
日本政府といえば、人道支援が・・・の一辺倒。他国のようにしたたかに戦略的に動いておられるのかわかりませんが、ミャンマー国内における日本の影響力低下が著しいのを肌で感じる日々です。
トングー・ロード―ビルマ賠償工事の五年間 (1963年) (岩波新書)を読みました。
日本人が命を懸けて作ったバルーチャン発電所も今や中国のバルーチャン発電所となろうとしています。
戦時中、日本軍上層部の一部は撤退寸前までメイミョ(ピンウールイン)に芸者を呼び寿司を食べていたと、元日本兵の方から聞きました。発電機が回り、エアコンが効いた事務所と自宅を往復し、ヤンゴンやネーピードだけを往復している方々が中心になって繰り出されているような日本の今の対ミャンマー戦略。
65年前の悪夢の再現にならぬよう、宜しくお願い致します。