J-SATは25年間ミャンマーにて事業を行う実績と経験からミャンマー進出における

人材支援、市場調査、会社登記等、会社運営をトータルサポートします。

ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

GENKYの6年間を振り返っています。

今さらですが・・・GENKYのホームページを作っています。
だいたいできましたが、あとは軌跡・・・写真は探すのが大変なので、ブログから写真をダウンロード。
2009年〜2010年は本当に普及のために色々やってたなー。と。
2010年後半は毎日どこかのジャーナル紙が記事にしてくれていたので、もうネタもつきてきていました。最近の引っ越しまではジャーナル保存していたのですが・・・。
振り返ると面白い!そして、スタッフが若い!

2009年

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2009年

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2010年-2009年

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2010年

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2013年‐2010年

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2016年-2014年

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2019年-2017年

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2020年-2021年

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「死の鉄路 泰緬鉄道~ビルマ労務者の記録」を読んでみました。

「死の鉄路 泰緬鉄道~ビルマ労務者の記録」を読んでみました。

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まず、貴重で多くの人に読んで欲しい本だと思いました。
翻訳者の田辺さんがあとがきで書いておられます。「日本人では20万人もの人が戦病死した地であるだけに、体験された方が戦記を書かれている本は数多くあります。しかし、それらは日本人の側の声であって、ビルマ側のものはありません。この本は数少ないビルマ人が書いた本であるが、黒白をつけるものではなく、ビルマ人がそう見ていた。と受け取ってもらいたい」

中身は日本人には耳の痛い部分もありますが、当時の状況を想像してみると、たしかにその通りだと感じる部分は多々あります。当地でリサーチを行い、多くのビルマ人戦争体験者から話を聞いてきた経験からは、しっくりくる内容でした。

戦争は切り取ったところによって状況は変わります。
日本ではよくアウンサン将軍は日本軍が育て・・・という話が出ます。ちょうどこの本の前書きには、1946年12月18日タンビューザヤ軍墓地落成記念式典でのアウンサン将軍の演説があります。「4年前ぐらい前からわが国は戦火に見舞われた。戦火とともに日本の軍国主義たち、それに悪しきファシズムがやってきた」からはじまります。

ミャンマーは日本がイギリスからの独立を支援をしたので・・・と日本ではよく語られる部分ですが、ミャンマーの人からその通り!と言われたことはほとんどありません。また、日本でよく言われる、イギリス時代よりは日本時代がマシだった、というのも言われたことはありませんでした。本の中では「日本兵と仲良くしている、気にいられているビルマ人は優遇されて、その他は別の扱い、イギリス時代の階級社会と何ら変わらない」と語られています。同様なことは私も何度も聞きました。

当時の日本兵と今の日本企業戦士とがダブります。
ミャンマーに駐在している日本の人は大きく二つに分かれると思います。ミャンマー人が好きな人とそうでない人。現地に溶け込み地元の料理を食べる人もいたら、食事が合わない、汚い、電気がない、指示が守れないと文句ばかりいう人。
戦時中もそうだったような気がします。
溶け込んだ日本人には地元の人はサポート。逆に溶け込まない人は・・・。
戦況が不利になり撤退になれば、仲良くしていた人を地元の人は助けますし、そうでない人は想像ができます。そう考えれば、生き残って生還された方は、仲良くしていた人が多い、だから「ビルキチ」みたいな言葉が生まれたのではないのかな、と、この本を読んで感じました。

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ミャンマーの人は日本人が戦時中行ったことを知った上で親日の人が多くおられます。日本人も実際日本人がこのビルマの地でどういうことを行ったのか、それを直視しその上で今のミャンマーとつきあっていくことが大切だと思います。
ミャンマーの人のことを理解することがミャンマーでのビジネスの成功のカギ。
そのためには、戦時中のことから理解していくことが大切なように感じます。
この本、絶版ですがアマゾンでは簡単に手に入りますので、ミャンマーとビジネスしている方はぜひ!

外国人介護人材受け入れはいつになるのか・・・。

外国人介護人材受け入れ可能になるという「外国人の技能実習の適正な実施及び技能実習生の保護に関する法律案(内閣提出、第189回国会閣法第30号)」が会期中の国会での可決が難しくなったという情報が飛んでいます。

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送り出しの立場からすると、既存の技能実習制度と外国人介護を同じにすることから問題のような気がします。技能実習制度の場合、お金を稼ぐのが実習生第一の目的であるのは疑う余地はありません。
お金を稼ぐことが目的で建設現場や工場、農水産業の現場で3年間という区切りのある中での仕事であれば続くと思いますが、介護は全く異なってくると思います。

介護現場ですと、まず、日本語ができないと仕事ができません。そして、技術より心が大切になってきます。普通に考えると、お金目的だけで介護職は3年間続かないと予想できます。
同じ技能実習生といっても、介護職の場合は候補者を集め、本当に介護職が3年間勤まる心を持っているかどうか、というところが、とても重要になってくることになります。

弊社では、日本へ行き介護技術を勉強したいミャンマーの方々を、全国のミャンマー医師会・看護師会を通し集めています。
それだけでなく、日本は過酷な現場ですので、日本語教育を始める前に1か月間の地方の介護施設で体験をしてもらうスキームを取り入れています。

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先日、この現場に行ってきました。ヤンゴンから4時間ぐらい離れた介護施設。集団で働き生活。皆であらゆることを協力しなければなりません。話を聞いてみると、入居者の入歯がなくなったとのことで、トイレの便器の中に手を突っ込んで探したスタッフもいました。頼もしいものです。

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実はこの研修前1か月間は介護の基礎知識の勉強をミャンマー語で行います。
現在介護施設で研修している二期生は合計19名。入学当初はは28名でした。研修に参加しなかった9名のうち、5名は日本ではなくミャンマーでの介護職就職を希望。残りはシンガポールやフランスに行くといって日本語勉強クラスにはすすみませんでした。

高齢化で困っているのは日本だけではありません。
台湾やオーストラリアなどもミャンマー介護人材を求めてやってきています。

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日本は外国人介護人材受入後のことを心配していますが、それは当然のこと。日本が受け入れるといっても、本当に介護技術を学びたい人が日本を選んでくれるかは別の問題。日本での研修を魅力的にすることが実は最も大切だと感じています。法案審議の議事録をみましたが、そこに言及している質疑はみられませんでした。しかも、法案通過せず先送り・・・世界の流れに逆行しています。

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弊社が研修を行っている介護施設では、増築を予定していました。周辺の街から介護施設の拡張の希望が多いからだそうです。ミャンマー国内で介護人材が新たな雇用の受け皿になる日は我々が想像するより早そうです。

ミャンマーコンピュータ大学と工科大学マンダレーの2国立大学とMOU調印しました。

2016年5月4日J-SATとミャンマーコンピュータ大学、工科大学マンダレーが日本語授業を受託するMOU調印式がそれぞれの大学にて行いました。

日本企業での勤務を希望する在校生に対し、授業の中で日本語教育を行うだけでなく、大学卒業後スムーズに日系企業に就職できるようサポートします。

■ミャンマー新政権の樹立と教育改革がもたらす魅力ある大学づくり
2016年4月に新政権が樹立したミャンマー。ミャンマーに進出しミャンマー日本商工会議所に登録する企業は300社を越えており、4月の新政権発足の影響もともないさらに加速する見通しです。
ただ、本格的に採用を行う進出企業は一部であり、営業開始準備を未だすすめているところも少なくありません。長年米国制裁などの影響で民間企業数が圧倒的 に少ないこともあり、大学進学率が10%を満たないミャンマーの大学の卒業はおろか、難関の工科大学やコンピュータ大学を卒業しても、就職先がない状況が これまで続いています。
このような状況下、2010年に民政移管したミャンマー政府は教育改革を推し進めており、これまで大学運営について、中央政府に権限が集中していたものを 各大学に移行。2015年からは、大学に合格した学生は住居登録している地区近くの希望学部がある大学に通わないといけなかったものが、学生が自由に大学 を選べるようになるなど、様々な改革が行われています。これらの動きにともない、各大学独自に就職相談会を開催、語学を学べるクラスをつくり就職率を上げる、ISOを取得するなど、大学がそれぞれ独自特徴を持ちはじめ、生徒の質の向上、受験者数の向上を目指し魅力ある大学作りを始めました。

■ミャンマー人材に日本語力を求める日系企業
日系企業で働く場合、日本で勤務する場合はもちろん、ミャンマーで勤務する場合であっても日本語力を求める企業は多いです。特にIT分野では、優秀で安価なシステムエンジニアを使って日本のオフショアア拠点として進出する企業が最近急増しており、直近3年間では大手IT企業から中小企業まで100社近くが進出しています。これまではIT人材を採用する場合、自社で日本語教育を行っているところが多かったが、大学在学中に日本語を習得できれば日系企業への就職には有利になり、大学側からの期待も大きいことがわかっています。

■人材不足の切り札として期待される外国人人材
少子高齢化が深刻化し、あらゆる業界で人手不足が進む日本では、2015年度、日本で働く外国人が90万人を突破しました。特に中小企業にとっては戦略的 に外国人を受け入れることが、人口減少が続く中でも企業が成長する条件と位置づけている企業も増え始め、J-SATの子会社でミャンマー人高度人材送り出 し機関であるMIBTIでは、2015年から技能実習生の就労期間が制限されず、長年正社員として雇用できる技術ビザを取得し日本で働くことができる、 ミャンマー人エンジニアの問い合わせが急増しています。

■日本語教育の内容
大学卒業後、日本企業にて働きたい在校生を対象とし、各大学が選抜。日本語教育期間は2年間で1日90分<1コマ(45分)×2コマ>週2日。日本語力は 卒業までに日常的な場面で使われる日本語をある程度理解することができる、日本語検定試験N3レベル到達を目指します。日本語テキストはJ-SATが運営 する日本語学校で使用しているオリジナルテキストを使用し、日本語教師もジェイサットのスタッフが担当します。

■就職に直結させる日本語教育
J-SATは2015年度、ミャンマーの大卒者に、管理職やエンジニア、会計など600名以上日本企業に進出させている実績があります。また2014年より科学技術省の協力のもと、ミャンマーの主要国立大学でキャリアセミナーを行っており、2016年7月も全国16大学にて最高学年約5,000名にセミナーを予定。各大学において就職支援も行い、これまでの経験で培った大学と連携し、ミャンマー進出済み日本企業や、日本にてミャンマー人エンジニアを必要とする日本企業に、日本語教育を受けた人材を、卒業と同時に就職できるよう積極的に支援していきます。

○マンダレーコンピュータ大学University of Computer Studies, Mandalay(UCSM)
http://www.ucsm.edu.mm/

マンダレーコンピュータ大学(UCSM)は1997年に設立された国立大学です。生徒数は現在900名。(うち450名は大学院生)ミャンマー国内ではヤンゴンコンピュータ大学と 並び、学部と大学院を持つコンピュータ専科大学で、特に上ミャンマーにある12コンピュータ国立大学(*)の総本山としてミャンマーを代表するコンピュー タ大学。
これまでDepartment of English(英語科)、Department of Burmese(ビルマ語科)があったが、新たにDepartment of Japanese(日本語科)を今回設立。

*Computer University, Myitkyina, Computer University, Bhamo,
Computer University, Kalay
Computer University, Monywa, Computer University, Mandalay,
Computer University, Pakokku
Computer University, Lashio, Computer University, Kengtung,
Computer University, Taunggyi
Computer University, Panglong, Computer University, Meiktila,
Computer University, Magway

○技術大学マンダレー Technology University Mandalay(TUM)
http://www.tum.edu.mm/

工科大学マンダレー(TUM)は1955年に設立された国立大学です。生徒数は現在約5,000名10学部あります。技術大学マンダレーはミャンマー第二の都市マンダレーにあり、工科大学、高等専門学校の上ビルマ地区における中心学府でミャンマーを代表する工科大学。近年は第二言語習得を強化し、学内に語学専用 の局を設立。外国企業からの依頼が多いため、すでに英語、中国語を設立済み。今回は日本語を開設し、将来的には韓国語、タイ語も作る予定で企業と協議を進めています。

今更ながら・・・社員教育・社内教育始めました。

今さらですが、4月からきちんと時間を取って社員教育を始めました。

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近年急激に社員数が増え、しかもほとんどが20代。
ミャンマー人の若者はすぐ転職する子がいたり仕事のことがわかっていない。とよく聞きます。それは、きちんと社員教育ができないことの裏返しだったと気づきました。

3月末に数名正社員として日本のIT企業などに人材紹介しました。現在多くの会社が、日本人新卒者と一緒に1か月間社員教育をされています。
教育を受けたミャンマー人スタッフに聞いてみると、本当に知らないことばかりで感謝した、仕事の意味がようやくわかった、と全員が感動、会社に恩返しを誓っていました。
ミャンマーに進出している日本の会社の多くは、採用=仕事を任せる となっていてまず社内教育をしている会社はほとんどないように思います。
ミャンマーの若者の多くは、仕事、働くことに関してよくわかっていないので、会社とは、利益はどうやって生み出されるか。から教えていく必要があると思い、そこから教えていくことにしました。
弊社では日本企業に対しての仕事がほとんどですので、日本語が使えれば使えるだけ仕事の幅が広がります。これについては社員からの発案で、日本語話せるスタッフが話せないスタッフに教えるクラスも始めました。
ミャンマーの人は学ぶことが好きな人が多く、離職率低下にも大いに貢献しています。

「会社の価値」=「社員の価値」

忘れず大切にします。

J-SAT直営日本語学校で日本人日本語教師を募集いたします。

業務拡大につき、弊社運営の日本語学校にて働いて頂ける日本人日本語教師を募集いたします。

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弊社は日本語検定試験合格を目指す日本語学校ではありません。
弊社日本語学校に入るために、日本語学校では異例の入試倍率4倍の難関を合格したミャンマー人が生徒。彼らは生活、人生をかけて日本語を8-12か月、朝から晩まで日本語漬けで勉強します。
日本企業で働きたいミャンマーの方に熱意をもって日本語教育を教えて頂ける方、弊社の理念に賛同して頂ける方を希望しています。
弊社サイト(http://mibti.jp) をご覧頂き、賛同頂ける方は是非ご応募ください。

勤務地:ヤンゴン市内
勤務時間:9時ー17時
休日:土日祝日
資格:日本企業で働きたいミャンマーの方に熱意をもって日本語教育を教えて頂け、弊社の理念に賛同して頂ける方。日本語教師育成講座など受講済みの方が望ましい。
年齢・性別:不問
勤務開始:2016年8月(応相談)試用期間3か月
給料:経験による
その他:海外保険、日本からの渡航費、ビザ費は弊社でご負担いたします。
※採用が決まり次第、募集を中止します。

≪申込および問い合わせ先≫
担当 西垣 info@mibti.jp

 

タンビュザヤの世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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泰緬鉄道のミャンマー側出発駅、タンビュザヤの泰緬鉄道博物館前に建立された、世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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モニュメントは元ヤンゴン日本人学校の置田校長先生と岐阜市の願成寺の住職を中心になった賛同者らが、お寺のお布施と置田校長の退職金を利用して白い大理石の発掘から平和の塔を建立、置田校長が個人的にすべてご準備されました。

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体感温度43℃の中、式典は住職のお経の後、置田校長先生のスピーチ。その後、泰緬鉄道建設に関わられ、戦後何度も来緬し慰霊を行われた木下さんからの戦時品を寄贈。今日の泰緬鉄道に対するミャンマー側の理解は木下さんが作られたといっても過言ではないそうです。

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戦地から絵手紙を日本に送られていた、後藤一味さんの絵手紙を拡大したものも寄贈されました(石塚まみさん寄贈)。参列されたミャンマーの関係者の方も、戦時中に書かれた平和を願う後藤さんの絵に驚いておられました。これらは博物館に展示される予定です。

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その後ミャンマー側からは、モン族の伝統舞踏が演じられました。

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式典には正月明けの初日、最も忙しい日にも関わらず新しく就任したモン州首相も参列(前日夜に参加表明)。

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ミャンマーの人は戦争について、あの時代だったから仕方なかった。と話す人が多くおられます。
輪廻転生を信じる仏教徒の方は、今生だけを自分の人生と捉えているのではなく、前世、来生も含めての自分の人生と理解しているのが一因のようです。泰緬鉄道で犠牲になった人は、もしかしたら前世は逆の立場だったのかもしれない。泰緬鉄道で加害者になった人は、来生は被害者になるだろう。うちの社員らと話しているとそういう理解で、日本軍が行ったこともある程度受け入れているように感じます。

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平和の塔の除幕式では、置田先生から、これは新たな出発式であるという挨拶がありました。「今回は平和の塔を建てるのが目的ではなく、平和の教え自他平等の精神を広めるために第一歩だったと感じています。(置田校長)」「自と他は一枚の紙の表裏のように、常に分けることのできない一つ、絶対に分けてはならない一つ」と塔には記載されています。
まさに、カンチャナブリでも感じた、加害者と被害者は表裏一体。泰緬鉄道はもともとイギリスが作ろうとした。戦後、日本兵はシベリア鉄道建設に連れていかれた。等々。どの時代で切り取るかで、加害者と被害者が変わってきます。
ミャンマー的な発想は、まさしく平和的な発想だと感心しました。

そんな発想が、今年1月に完成された泰緬鉄道博物館にも現れています。泰緬鉄道建設の説明は、「ミャンマー繁栄のために参加した」から始まります。泰緬鉄道博物館のオープニング式典には、鉄道建設に関わった木下さんを日本人としてただ一人、ミャンマー政府が招待しました。戦後何度も慰霊に来られたご尽力につきるのですが、それを政府として認めたことこともすごいことだと思います。

<映像はこちら>

https://www.facebook.com/488909774619574/videos/521523598024858/?video_source=pages_finch_main_video
video

もちろん泰緬鉄道建設について、納得できない人が今も多くおられると思います。最難関だったと言われるヘルファイア・パス(HellFire Pass)を訪れたときは、まだ成仏せずに掘り続ける人がいるようにも感じましたし、ミャンマー国内でも日本兵の霊が出るのは今も日常茶飯事の出来事です。

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「被災地、タクシーに乗る幽霊 東北学院大生が卒論に」(朝日新聞)http://digital.asahi.com/articles/ASHDY737QHDYUNHB00B.html という記事を思いだしました。「死んだと納得したら霊は消えていた」とあります。

人生は時代によって様々なことが起こります。特に戦争は個人ではどうしようもないこともあります。しかし、起きてしまった出来事を受け入れ納得する。それが来生にもつながり平和につながる。それを理解するために、この10日間があったのかなぁ。とそんなことを感じながら、夜中ヤンゴンに戻る車の中で考えていました。

ミャンマー。いろいろありますが、やはりこの国の国民はすごいです。

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追伸:泰緬鉄道博物館は写真が数点並べていますが、展示品が圧倒的に少ない状況です。ただ、資料は、連合軍側からのもの、日本軍からのもの、ミャンマー側か らのもの とそれぞれが一緒に展示されています。日本政府としてインフラ整備にODAを拠出するのもいいですが、資金の一部をこの施設 のために協力してもらえれば、より発展的な日緬友好につながるのではないでしょうか。

新年の挨拶ー朝礼にてー

昨日1日遅れで事務所に到着。朝礼で話した新年の挨拶を自分も振り返れるように書き残しておきます。ほんとはもっと長かったですが・・・。

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水祭り期間中はスタッフらとカンチャナブリに行きました。
もともとはダウエイ→カンチャナブリ→ビエンチャンに行く予定にしていましたが、色々な出来事があり、カンチャナブリ4日間滞在し、ビエンチャンにもバンコクにも行きませんでした。(行けませんでした)
カンチャナブリではふとした思いつきで泰緬鉄道博物館のツアーに参加しました。設立当時から働いているタイ人マネージャーがガイド。彼女は普段ガイドはやらないのに当日突然ガイドするよう上司から伝えられました。私たちが初めてお会いしたときは、「あなた達は何者ですか?」と逆に質問されました。多くの人が亡くなったヘルファイアー・パスでは謎の虫が大量発生。私だけその虫に噛まれ突然痛みが出たりしました。泰緬鉄道に関わり、戦後尽力を尽くした日本人の銅像を撮影しようとしたら、突然カメラが作動しなかったり、泰緬鉄道関連の映画をみたら、どうやっても画像が乱れたり、と色々なことが起きました。

カンチャナブリに滞在中には、泰緬鉄道の終着点であるタンビュザヤの平和の塔の式典に突然誘われ、正月明け初日でしたが不思議な縁を感じ、みなさんには迷惑をかけましたが昨日参加してきました。

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この水祭り期間中の体験を通して気付いたのは、多くの人が(目に見えない人も)我々に期待をしているようです。そして応援してくれています。ですので会社もどんどん大きくなっています。我々の仕事は、お金儲けだけの仕事はなく、多くの人々を幸福にする仕事だと自負しています。

大きくなったから、有名になったから驕ることなく、謙虚さを忘れず努力を続けることが大切です。

我々には多くの課題やミッションが日々与えてられています。それは会社=働く社員、つまり皆さん一人一人にミッションを与えられているのと同じです。ミャンマーは新政権が動き始め新しい時代に入りました。そしてJ-SATも新しい時代に突入しています。連日、他の会社に比べたら忙しいし大変かもしれません。世の中の出来事、目の前に起きることはすべて理由があります。必要必然です。今この場(J-SAT)にいる理由を考え、感謝し、一人一人が与えられたミッションを感じ、新しいJ-SATを皆で作り上げていきましょう!

泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Centre)の1日歴史ツアーに参加して感じたこと。

カンチャナブリ市内にある泰緬鉄道博物館の1日歴史ツアーに参加しました。朝8時半にホテルに迎えに来てもらい、まずは泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Center)をじっくり見学。

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泰緬鉄道博物館創設当時から働くマネージャーが専属ガイドとして特別に終日案内してくれました。彼女はほとんどガイドとして一般客を案内しないそうですが、突然指示され本日案内することになったそうです。

タイ人・日本人・ミャンマー人のこのグループらしく、それぞれの国の立場での意見があり、認識の仕方 (教えられ方)も違っていて、中身の濃い1日となりました。

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その後、収容所跡や当時の駅跡、どのように捕虜が現場に送られていったのか等、普通のツアーとは全く違い、彼女が持参した昔の貴重な資料を見ながら、彼女自身が多くの証言者からヒアリングした内容などとともに詳細説明してくれました。

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朝8時半からスタートし、終わったのは18時過ぎ。当地を訪れる方には是非お勧めのツアーです。

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いくつか回った後、旧泰緬鉄道のナムトク線に乗車。

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ハイライトのティンバートレッスル橋(アルヒル桟道橋)、全長約300mS字カーブの木造橋は2週間で作り上げたということには驚きました。

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ランチ後はヘルファイアー・パス博物館(サイヨーク)。

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Hellfire Pass では、竹の松明で毎日18時間労働し切り立った崖を素手で切り開いた痕がいくつも残されています。

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慰霊碑の先は木の橋(今は朽ちてありません)があり、その先にずっと続いていきます。泰緬鉄道の8つの大きな橋のうち、タイ側は1か所、ミャンマー側は7か所。ということは、ミャンマー側はすごい状況であったことが想像できます。

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博物館には泰緬鉄道に関わった国別強制労働者数がありましたが、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、アメリカ人らが61,800人参加、うち12,619人死亡【POW/捕虜】、インドネシア人、マレーシア人、ベトナム人、ミャンマー人などアジア人【SLAVE/奴隷】が20万人参加、うち8万5千人が死亡。(ミャンマー人は18万人参加し4万人死亡と記述)
にも関わらず、犠牲になったアジアの人々の墓地や慰霊碑だけでなく、記載やデータもほとんどない現状。しかも、アジアの人々を区別して【奴隷】と記載。

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タイ人のマネージャーが長年この仕事を続けているのも、タイではこの史実を学校では詳しく教えておらず、機関車や橋を背景に写真を撮ったりしているだけなのは悲しく思い、皆に知ってほしいから働いていると話していました。

ミャンマーでも詳しくは学校で教えていないそうです。ミャンマー人観光客が正月休暇中ということもあって多く訪れており、記念撮影をしていましたが、この建設に関わった全人数の約60%、亡くなった人の40%がミャンマー人だったということを理解しているのでしょうか。16ヶ月で10万人が亡くなったということは、毎日200名以上亡くなっていた計算です。

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泰緬鉄道は、もともとイギリスが植民地時代に敷設しようとした路線。当時、もし労働者が確保でき、建設工事が始まっていたら今の歴史とは全く逆の立場。

日本人はというと、戦後日本人捕虜ら日本人107万人はシベリアに輸送され鉄道建設や森林伐採、炭鉱労働で約34万人が犠牲になりました。

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ミャンマーの人々は日本軍が統治していた時代のことを日本よりは詳しく教えており、授業で勉強したときは、日本人は戦時中どれだけミャンマーの人に対して悪行行ったひどい人だと感じる人が多いようです。ただ、戦後の日本による支援や日本人と直接触れたことによって、歴史も受け入れた上で多くの人が親日家になるそうです。

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映画『レイルウェイ 運命の旅路』をみました。実際にタイの捕虜収容所で、憲兵隊の通訳を担当していた永瀬隆さんという方、恥ずかしながら知らなかったのでネットで調べてみました。

「永瀬さんは旧日本軍への憎しみを持つ元捕虜のの中、何度もの英国の退役軍人会などに手紙を書き続け、76年10月。23人の元捕虜がクワイ河のかかる橋の上に集まった。和解に向けた第一歩は元捕虜の批判も巻き起こした。「旧日本軍と和解するのは裏切り者の行いだ」。旧日本軍の間にも永瀬さんの活動への反発は強かった。それでも永瀬さんは地道に元捕虜たちとの和解活動を続けていく。「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(3)巡礼:http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140112-00031506/

映画『レイルウェイ 運命の旅路』では、お互いが当時を振り返り、そしてその事実を知り理解し、「和解に尽力してきたあなたは誰よりも勇気がある。カンチャナブリーで起こったことを忘れはしない、でも、あなたのことは心から赦そう、憎しみはいつか終わらさなければ」。二人はよき友となり、2011年、永瀬の死まで友情は続いた。2012年にエリックが亡くなり、パットが見守った。と終わります。

ここに大切なヒントがあると思います。何事も人それぞれに、価値観・歴史観が異なるので、歴史の伝え方も違う。それぞれ一方の主張だけだといつまでも平行線になってしまう。この泰緬鉄道博物館も同じ。70年経った今もヘルファイアー・パスには日本軍に対し憎悪を憎しをもった人々が残されているように感じました。当時を振り返りお互いが理解しあえる、未来につながる機会が必要です。

今月から日本兵の遺骨収集が再開されたから今こそ、どうして人々は死んでいったのか。そしてその人達に関わっていた人達はどうだったのか。相手国(連合国側)はどうだったのか。
ティラワに巨額な支援をする前に、日本は戦争の史実を日本人用だけのものではなく、現地の人にも、未来を支える日本人にも、イギリスやインドの人にも、史実を恐れずきちん伝える博物館などを建設すべきだと感じます。

例えば、ミャンマー政府、日本政府、インド政府、イギリス政府、ミャンマー民間、日本民間、イギリス民間、インド民間、それぞれが関わり納得でくるような博物館があればいいのかもしれな。そういう歴史博物館を作ることも重要な支援ではないでしょうか。

ついに遺骨収集の法律が施行されたので、写真とともに20年間を振り返ってみました。

太平洋戦争で亡くなった戦没者の遺骨収集を加速する法律が、今月1日、ついに施行されました。

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この方は40年以上前に行われた第一回日本政府による遺骨収集の実現に、当時ビルマ政府ホテル観光省の役人として尽力をつくされた故マウンテン大佐です。彼がいなければ当時遺骨収集は実現しなかったという話を聞きました。彼にヤンゴンに残される戦時中の建物や当時どのように利用されていたか、案内してもらいました。その一つが今のチミダイン国立盲学校で、それが縁でGENKY視覚障害者支援につながっていきます。彼に合わなければGENKYはありません。といことはミャンマーで視覚障害者マッサージとう職業が定着していないということになります。ほんとに不思議ですねー。

ミャンマーで生活していると、特に番組制作のリサーチなど20年近く行っていると、遺骨には度々遭遇していました。ですので、ロケハンやリサーチのときには日本の線香をいつも持参。家に戻るときは家に入る前に塩を振っていました。
実は・・・以前の事務所にもどなたかおられましたので、事務所入口には盛り塩をしていました(笑)。私が日本などに出張する時に決まって事務所内で不思議な現象が起きていたので、不在中を守っていてくれてるのだと勝手に思っていました。いつも助けて守って頂いています。ありがとうございます。といっても、私は全く霊感ありませんので見えません。

遺骨は勝手に日本に戻すことはできず、日本大使館に遺骨とともに遺骨があるだろうリストを作成し預かって頂いていました。
そんな中、ついに先月日本に戻ることができるようになりました。

この法案が通ったのを受け、ようやく帰国が叶うのと同時に、70年以上前にこの地で何が行われたのか、という歴史がこれから日本でニュースや番組になり人々の注目を浴びる。学校で教えられている社会の教科書では「インパール作戦では」と一言にまとめられてしまっている、その文脈の中の事実が再び注目を浴びる。日本の支援、企業進出が本格化する今こそ、それが大切な気がします。

ということで、残っている写真をざっとまとめようとしたら、多くの写真が紛失(涙)残っているものだけ、コメントつけてご紹介いたします。

みなさん、ついに帰国開始です!

こちらインド国境タム郊外にあるパンタ村。ここからインパール向かう場所で、40年前、第一回遺骨収集団が来られた時に案内した人が見つかり、色々話しを聞きました。

インド側で負傷した日本人用の野戦病院があったが、重症で安全な場所まで行けない負傷兵が多かったこともあり、隣に墓地を併設していたそうです。そんなこともあり、掘ればいくらでも遺骨が出てきたそうですが、途中でスコップが人々の方に勝手に動き始めてしまい危険になり、途中で断念したそうです。私が訪ねたのは2005年。この場所は当時インド側が政情不安でしたので時折銃声が聞こえる現場でした。ミャンマー兵に周囲を銃で護衛してもらいながら訪問しましたので、その第一回遺骨収集以来初めて訪ねた日本人でした。

シュエチン村にも遺骨がいくつかありました。この時は遺骨持ち帰れませんでした。

こちらコンタン村

コンタン村には日本の軍票を作る造幣局があったと地元の老人に聞きました。

 

ここも思い出に残るアッロエ村。ここでは当時、日本軍とイギリス軍が24時間ぶっ通しで戦った激戦の地と聞きました。
このときは番組リサーチで行ったのですが、その後番組ロケでも訪問予定だったのですが、理解不能な不思議なことが次々起こり、結局取材できない地となりました。当時は、多くの人が戦死した地なので、きちんと僧侶をお連れしてからの方がいいのでは、と取材班に理解して頂き諦めた覚えがあります。

この写真は2009年イラワジ川の対岸にある有名なクレ高地。

当時を知るドウ・ケンウー。ここも多くの慰霊に日本人の方が来られていたが最近はほとんど来なくなり、慰霊碑も荒れ果ててきていると嘆いていました。あれから7年もたち、当時を知る人ももういないと思いますので、忘れ去られていくのでしょうか。

ミャンマー中部の村、タウンレド村。結局、番組にはなりませんでしたが、この地で襲撃を受けたが生き残った旧日本兵の方が訪問したいということで、この地を探しました。これは銃痕の後。

2009年に訪問したタウンレド。この女性は戦時中、この地に日本軍が駐留していた時に生まれた女性で、名前は駐留していた日本人がつけた。と村人皆が知っている地元では有名な女性でした。村では、これまで多くの遺骨が出てきたそうですが、輪廻転生を信じるミャンマーの仏教徒にとっては骨は大切なものではないので、すべて捨ててしまったそうです。

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ここはメッティーラの郊外。軍施設の中ということで、一般の人は入りにくい場所でしたが、今も銃痕の後が残る建物がありました。

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その前には、今も遺骨が流れ出て着ていました。

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この遺骨は集め日本大使館に預かって頂きました。(2009年)

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メッティーラのゴルフ場にある今は使われていない井戸。ここに自ら命を絶った日本兵がおられる。と案内して頂きました。

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戦時中はマンダレー王宮が日本軍の司令部になっており、その中で日本語も教えていました。その卒業証書。とご本人。いろいろ当時の話を聞きました。

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最後は、2005年に訪問した、ピィのサンペイさん。戦時中日本軍の通訳をし、そして戦後はODAで作られたマツダや日野の工場で働く日本人の方々の様々なお世話や慰霊碑建立に尽力をされました。彼が涙を流しながら当時の日本軍の悲惨な現実を話は壮絶でした。番組はこちら(http://www.ctv.co.jp/chu/lady/2005/0421/

他にもいろいろあるのですが、写真が見つかりません。また見つかったら記録用としても、記載してみたいと思います。