ゲンキー10周年記念セレモニーが盛大に行われました。
セレモニーでのスピーチは長く退屈なものが多いですが、登壇者はいずれも、創成期から関わって苦労した人らのもので、今では信じられないような環境下で作り上げた当時の話が多く、とても興味深いスピーチばかりで、私も当時を懐かしく思い出しました。
まずは、ミャンマー政府社会福祉省から、現在副局長になった Daw Maw Maw Oo氏。
彼女は2011年からこのチミダイン国立盲学校長に着任し、社会人向け視覚障害者マッサージ短期習得コース・サマースクールを立ち上げてくれた当時の校長です。ミャンマー政府側の代表として、GENKYができる部分とミャンマー政府として提供できる部分の役割分担、生徒募集から採用まで、ゼロから作り上げてくれました。彼女はサマースクール立ち上げ後、サガイン盲学校長に転勤となりました。サガイン盲学校では、GENKYと同じ仕組みをサガイン盲学校内に作り上げ、現地で多くの視覚障害者マッサージ師育成に貢献しました。
現在ヤンゴンには視覚障害者マッサージ店が60店舗ほどありますが、サガイン盲学校から近い第二の都市マンダレーにも30店舗ほどあり、いずれも繁盛し普及したのは、彼女がサガイン盲学校にて視覚障害者マッサージを浸透させ育成した功績が大きいです。
そして次のスピーチは Daw Yu Yu Swe 氏。
私がGENKYをやろう考えた時のチミダイン国立盲学校長。彼女がいなければ、ここまで視覚障害者マッサージは普及していなかったと言い切れます。GENKYの初期メンバー選出から政府からの営業許可まで、すべて無償で協力してくれました。その後、ミャンマー政府社会福祉省の課長となり、WHOやJICAなど多くの国際機関の窓口は彼女が担当するなど、省庁内で影響力を持ち、視覚障害者マッサージだけでなく、彼女の働きで、ミャンマーにおける障害者の社会的地位を大きく改善させています。
今回彼女のスピーチで私も初めて知ったことがありました。
我々が初めてGENKYをやりたいと相談したとき、彼女はこれまで多くの人から相談受けたが、お金目的の人が多く断ってきたそうです。GENKYの目的は、GENKYの店を増やすことではなく、視覚障害者の社会的地位を向上させ、そして視覚障害者マッサージを全国に普及させることであったので協力した。そしてそれは間違っていなかったとの話でした。
無茶ぶりの私のリクエストを着実にこなしてくれ、さらにパワーアップしてくれたのが彼です。大手財閥企業オーナーの長男で今は大手建設会社の大社長ですが、日本で働いた経験もあり、日本式サービスとミャンマー政府や住民らをまとめあげてくれました。スピーチでは現場での苦労話が中心。開店前、改装工事をやりながも周辺住民からは反対の意見多数。「マッサージ店はいかがわしい」「眼の見えない人は歩けなく危なく住民には迷惑」などなど。開店後も「視覚障害は伝染するのか?」「眼の見えない人がマッサージなんてできるのか?身体つぶされないか?」などなど。今では考えられないことですが、これらはほんの一部で多くの問題がありました。今となっては懐かしい思い出ですが・・・。
最後には、今もGENKY視覚障害者マッサージ師の中心、Ko Soe Htay 氏。
今日の視覚障害者マッサージ店が普及したことを喜ぶとともに、サマースクールでの苦労話をスピーチしました。サマースクールで教えれる生徒数は12名が限界と思い、そう制限していたのですが、最初は40名近くが応募してきました。いずれも金銭的には厳しく、交通費もままならない家庭環境。合格できなかった視覚障害者家族にお小遣いをあげ、泣きながら帰る家族らがいて辛かったそうです。
当日は、サプライズで勤続10年の社員らに特別報奨金を贈呈。彼女は孤児院で育ち、今でもGENKYの店舗メンバーとして頑張っています。
両店舗の多くご利用頂いているお客様にもお越し頂きました。
中には、1マッサージ1スタンプ、30スタンプで1枚となるスタンプカードを30枚持っているお客様もおられ、リピーター客だけで80%を売り上げるGENKYの基礎となっています。
GENKYで視覚障害者マッサージとして働いたのはこれまで64名(うち結婚したのは29名)。これまで働いたスタッフらも参加。うち数名が独立していますが、2店舗のオーナーや3階建てのマッサージ店のオーナーになって成功しています。
久しぶりに会った仲間同士で終了後も皆楽しく談笑していました。
今回参加した全員が幸せになるほんと、いいプロジェクトだとあらためて感じました。
このプロジェクトを言い出したのは私ですが、今回の参加者のうち、一人でも欠けたらここまで成功できなかったとあらためて感じました。皆が協力できたのも、GENKYだけのためでない、皆が自分のことだけでなく、社会全体のことを考えて行動した結果だと思います。
その気持ちを「J-SATグループの原子」として、あらためて全社員で共有したいと強く感じたセレモニーでした。