J-SATは25年間ミャンマーにて事業を行う実績と経験からミャンマー進出における

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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

タンビュザヤの世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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泰緬鉄道のミャンマー側出発駅、タンビュザヤの泰緬鉄道博物館前に建立された、世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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モニュメントは元ヤンゴン日本人学校の置田校長先生と岐阜市の願成寺の住職を中心になった賛同者らが、お寺のお布施と置田校長の退職金を利用して白い大理石の発掘から平和の塔を建立、置田校長が個人的にすべてご準備されました。

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体感温度43℃の中、式典は住職のお経の後、置田校長先生のスピーチ。その後、泰緬鉄道建設に関わられ、戦後何度も来緬し慰霊を行われた木下さんからの戦時品を寄贈。今日の泰緬鉄道に対するミャンマー側の理解は木下さんが作られたといっても過言ではないそうです。

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戦地から絵手紙を日本に送られていた、後藤一味さんの絵手紙を拡大したものも寄贈されました(石塚まみさん寄贈)。参列されたミャンマーの関係者の方も、戦時中に書かれた平和を願う後藤さんの絵に驚いておられました。これらは博物館に展示される予定です。

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その後ミャンマー側からは、モン族の伝統舞踏が演じられました。

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式典には正月明けの初日、最も忙しい日にも関わらず新しく就任したモン州首相も参列(前日夜に参加表明)。

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ミャンマーの人は戦争について、あの時代だったから仕方なかった。と話す人が多くおられます。
輪廻転生を信じる仏教徒の方は、今生だけを自分の人生と捉えているのではなく、前世、来生も含めての自分の人生と理解しているのが一因のようです。泰緬鉄道で犠牲になった人は、もしかしたら前世は逆の立場だったのかもしれない。泰緬鉄道で加害者になった人は、来生は被害者になるだろう。うちの社員らと話しているとそういう理解で、日本軍が行ったこともある程度受け入れているように感じます。

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平和の塔の除幕式では、置田先生から、これは新たな出発式であるという挨拶がありました。「今回は平和の塔を建てるのが目的ではなく、平和の教え自他平等の精神を広めるために第一歩だったと感じています。(置田校長)」「自と他は一枚の紙の表裏のように、常に分けることのできない一つ、絶対に分けてはならない一つ」と塔には記載されています。
まさに、カンチャナブリでも感じた、加害者と被害者は表裏一体。泰緬鉄道はもともとイギリスが作ろうとした。戦後、日本兵はシベリア鉄道建設に連れていかれた。等々。どの時代で切り取るかで、加害者と被害者が変わってきます。
ミャンマー的な発想は、まさしく平和的な発想だと感心しました。

そんな発想が、今年1月に完成された泰緬鉄道博物館にも現れています。泰緬鉄道建設の説明は、「ミャンマー繁栄のために参加した」から始まります。泰緬鉄道博物館のオープニング式典には、鉄道建設に関わった木下さんを日本人としてただ一人、ミャンマー政府が招待しました。戦後何度も慰霊に来られたご尽力につきるのですが、それを政府として認めたことこともすごいことだと思います。

<映像はこちら>

https://www.facebook.com/488909774619574/videos/521523598024858/?video_source=pages_finch_main_video
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もちろん泰緬鉄道建設について、納得できない人が今も多くおられると思います。最難関だったと言われるヘルファイア・パス(HellFire Pass)を訪れたときは、まだ成仏せずに掘り続ける人がいるようにも感じましたし、ミャンマー国内でも日本兵の霊が出るのは今も日常茶飯事の出来事です。

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「被災地、タクシーに乗る幽霊 東北学院大生が卒論に」(朝日新聞)http://digital.asahi.com/articles/ASHDY737QHDYUNHB00B.html という記事を思いだしました。「死んだと納得したら霊は消えていた」とあります。

人生は時代によって様々なことが起こります。特に戦争は個人ではどうしようもないこともあります。しかし、起きてしまった出来事を受け入れ納得する。それが来生にもつながり平和につながる。それを理解するために、この10日間があったのかなぁ。とそんなことを感じながら、夜中ヤンゴンに戻る車の中で考えていました。

ミャンマー。いろいろありますが、やはりこの国の国民はすごいです。

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追伸:泰緬鉄道博物館は写真が数点並べていますが、展示品が圧倒的に少ない状況です。ただ、資料は、連合軍側からのもの、日本軍からのもの、ミャンマー側か らのもの とそれぞれが一緒に展示されています。日本政府としてインフラ整備にODAを拠出するのもいいですが、資金の一部をこの施設 のために協力してもらえれば、より発展的な日緬友好につながるのではないでしょうか。

泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Centre)の1日歴史ツアーに参加して感じたこと。

カンチャナブリ市内にある泰緬鉄道博物館の1日歴史ツアーに参加しました。朝8時半にホテルに迎えに来てもらい、まずは泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Center)をじっくり見学。

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泰緬鉄道博物館創設当時から働くマネージャーが専属ガイドとして特別に終日案内してくれました。彼女はほとんどガイドとして一般客を案内しないそうですが、突然指示され本日案内することになったそうです。

タイ人・日本人・ミャンマー人のこのグループらしく、それぞれの国の立場での意見があり、認識の仕方 (教えられ方)も違っていて、中身の濃い1日となりました。

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その後、収容所跡や当時の駅跡、どのように捕虜が現場に送られていったのか等、普通のツアーとは全く違い、彼女が持参した昔の貴重な資料を見ながら、彼女自身が多くの証言者からヒアリングした内容などとともに詳細説明してくれました。

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朝8時半からスタートし、終わったのは18時過ぎ。当地を訪れる方には是非お勧めのツアーです。

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いくつか回った後、旧泰緬鉄道のナムトク線に乗車。

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ハイライトのティンバートレッスル橋(アルヒル桟道橋)、全長約300mS字カーブの木造橋は2週間で作り上げたということには驚きました。

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ランチ後はヘルファイアー・パス博物館(サイヨーク)。

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Hellfire Pass では、竹の松明で毎日18時間労働し切り立った崖を素手で切り開いた痕がいくつも残されています。

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慰霊碑の先は木の橋(今は朽ちてありません)があり、その先にずっと続いていきます。泰緬鉄道の8つの大きな橋のうち、タイ側は1か所、ミャンマー側は7か所。ということは、ミャンマー側はすごい状況であったことが想像できます。

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博物館には泰緬鉄道に関わった国別強制労働者数がありましたが、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、アメリカ人らが61,800人参加、うち12,619人死亡【POW/捕虜】、インドネシア人、マレーシア人、ベトナム人、ミャンマー人などアジア人【SLAVE/奴隷】が20万人参加、うち8万5千人が死亡。(ミャンマー人は18万人参加し4万人死亡と記述)
にも関わらず、犠牲になったアジアの人々の墓地や慰霊碑だけでなく、記載やデータもほとんどない現状。しかも、アジアの人々を区別して【奴隷】と記載。

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タイ人のマネージャーが長年この仕事を続けているのも、タイではこの史実を学校では詳しく教えておらず、機関車や橋を背景に写真を撮ったりしているだけなのは悲しく思い、皆に知ってほしいから働いていると話していました。

ミャンマーでも詳しくは学校で教えていないそうです。ミャンマー人観光客が正月休暇中ということもあって多く訪れており、記念撮影をしていましたが、この建設に関わった全人数の約60%、亡くなった人の40%がミャンマー人だったということを理解しているのでしょうか。16ヶ月で10万人が亡くなったということは、毎日200名以上亡くなっていた計算です。

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泰緬鉄道は、もともとイギリスが植民地時代に敷設しようとした路線。当時、もし労働者が確保でき、建設工事が始まっていたら今の歴史とは全く逆の立場。

日本人はというと、戦後日本人捕虜ら日本人107万人はシベリアに輸送され鉄道建設や森林伐採、炭鉱労働で約34万人が犠牲になりました。

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ミャンマーの人々は日本軍が統治していた時代のことを日本よりは詳しく教えており、授業で勉強したときは、日本人は戦時中どれだけミャンマーの人に対して悪行行ったひどい人だと感じる人が多いようです。ただ、戦後の日本による支援や日本人と直接触れたことによって、歴史も受け入れた上で多くの人が親日家になるそうです。

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映画『レイルウェイ 運命の旅路』をみました。実際にタイの捕虜収容所で、憲兵隊の通訳を担当していた永瀬隆さんという方、恥ずかしながら知らなかったのでネットで調べてみました。

「永瀬さんは旧日本軍への憎しみを持つ元捕虜のの中、何度もの英国の退役軍人会などに手紙を書き続け、76年10月。23人の元捕虜がクワイ河のかかる橋の上に集まった。和解に向けた第一歩は元捕虜の批判も巻き起こした。「旧日本軍と和解するのは裏切り者の行いだ」。旧日本軍の間にも永瀬さんの活動への反発は強かった。それでも永瀬さんは地道に元捕虜たちとの和解活動を続けていく。「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(3)巡礼:http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140112-00031506/

映画『レイルウェイ 運命の旅路』では、お互いが当時を振り返り、そしてその事実を知り理解し、「和解に尽力してきたあなたは誰よりも勇気がある。カンチャナブリーで起こったことを忘れはしない、でも、あなたのことは心から赦そう、憎しみはいつか終わらさなければ」。二人はよき友となり、2011年、永瀬の死まで友情は続いた。2012年にエリックが亡くなり、パットが見守った。と終わります。

ここに大切なヒントがあると思います。何事も人それぞれに、価値観・歴史観が異なるので、歴史の伝え方も違う。それぞれ一方の主張だけだといつまでも平行線になってしまう。この泰緬鉄道博物館も同じ。70年経った今もヘルファイアー・パスには日本軍に対し憎悪を憎しをもった人々が残されているように感じました。当時を振り返りお互いが理解しあえる、未来につながる機会が必要です。

今月から日本兵の遺骨収集が再開されたから今こそ、どうして人々は死んでいったのか。そしてその人達に関わっていた人達はどうだったのか。相手国(連合国側)はどうだったのか。
ティラワに巨額な支援をする前に、日本は戦争の史実を日本人用だけのものではなく、現地の人にも、未来を支える日本人にも、イギリスやインドの人にも、史実を恐れずきちん伝える博物館などを建設すべきだと感じます。

例えば、ミャンマー政府、日本政府、インド政府、イギリス政府、ミャンマー民間、日本民間、イギリス民間、インド民間、それぞれが関わり納得でくるような博物館があればいいのかもしれな。そういう歴史博物館を作ることも重要な支援ではないでしょうか。

日本へのミャンマー人材派遣・紹介サイトのホームページが完成しました!

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もうだいぶ前の話ですが、海外派遣用サイトがようやく完成しました。
これまで口コミだけで対応してきましたが、ミャンマー人材を送り始め実績が積みあがってきましたしお問い合わせも多いためいつも資料がなく困っていました。

ミャンマー介護人材派遣もいよいよ本格化してきそうということから、心決めて一気に作り上げました。
といっても、ネットで検索して日本の業者さんにお願いしただけ。
このサイトでかかった費用、10万円ちょっとなんです。

しかも、このサイト制作が今の時世そのままなのです。

ミャンマーでホームページ制作と検索して良さそうなサイトに依頼。
日本に滞在されていそう?な人と一度だけスカイプのやり取りして、あとはヤンゴンから文章とイメージと写真を担当になった日本人の方に送る。すると1週間後にはサンプルが出来上がってきました。
そして修正などやりとりして3週間足らずで完成。修正も翌日には必ずやってきます。
完成してからわかりましたが、この担当の方、何とオーストラリア在住の方でした。
ということは、
ミャンマーで発注、日本で受注、オーストラリアに発注。ミャンマーとオーストラリでやり取り。という流れ。しかも皆日本人。ほんと、今風です。

すごい時代になったと感動したら、実は自分が手掛けているのも同じですね。
日本で受注してミャンマーで日本語ができるミャンマーの人が制作、そして日本に戻す。
そういう時代ですなんですね。実感。

すべて納品終わり、このサイト制作担当の方からのメールで感動しました。
日本のクリエーターの方、レベル高いですねー。

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少しでもお客様のご要望にかなったサイトになったようでこちらこそとても嬉しく思っております。
修正や素材の提供等、毎回迅速にご対応頂き、こちらもスムーズに制作を進めれる事が出来ました。改めてありがとうございました。
私自身、今回の制作を通じ、それぞれの国がいま抱えてる雇用・労働者問題について改めて深く考えさせられました。そのプラスとマイナスを上手く相互で補い合う事によって、国同士の生産性や技術力も向上し、それぞれに還元される、とても素晴らしい考えだと思います。今や中小企業だけでなく、農業や漁業から離れてく若者も多く、ヒューマンリソースの問題はいま日本企業が抱えるとても難しい問題だと思います。
日本もまだまだ水面下で就職氷河期が続いているとはいえ、仕事の内容さえ選ばなければ、まだ生きていくだけの食費や生活費は稼げる仕事があるだけ恵まれているとも感じました。一概に全ての若者にあてはまるとは言えませんが、今の日本の若者は、まだ「職を選べる」立場にあるのではないかと思います。その点、ミャンマーの若者達は良い大学を出ているのにも関わらず、第二言語をもマスターして、違う文化や環境の下で働く事にひたむきに頑張る姿勢に強く感動しました。それをこのサイトで少しでも上手く分かりやすく伝えれれば良いなぁと思いながら制作させて頂いた次第です。
少し余談にはなりますしたが、今後とも御社の活動と発展に多々期待しております。

CHACO-WEB
WEBクリエーター/デザイナー
山下 真智子
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一番館が20年の歴史に幕を閉じました。

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私がミャンマーにやって来たのは96年4月。一番館は96年5月にオープンしました。この一番館が先月31日、20周年を持って、連日予約が入れない状況下、皆に惜しまれつつ閉店しました。
小丸夫人が、丸20年という区切りなどもあり英断されたそうで、今後の人生を楽しまれるそうです。
多くの日本食レストランがヤンゴンに出来ましたが、家賃がすぐ高騰することやパートナーの問題なので、5年以上続くのは至難の業。そんな中20年、しかも冬の時代を乗り越えて変わらず繁盛されているのは、様々な工夫と地道な努力と活動、それが大切と思ってもなかなか真似ができないことを20年間やり続けてこられたことにあるかと思います。こちら、インタビューした記事がありますのでご覧ください。
http://yangonow.com/jpn/interview/?p=113

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最後の日。話題はやはり、その引き際。その後どうします?と。
私はずっとヤンゴンで生活してることに違和感はなく、ヤンゴンで死んだ場合は骨は・・・と周囲に伝えているのですが、意外にみなさん日本に戻ることを想定されておられることに驚きました。さらに、会社をどうするのか等々。
一応考えてはいるのですが、50歳を超えたらあっという間に時が過ぎそうなので、来週からの水祭りの間、本読みながらゆっくり考えてみます。

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人材育成と健康。これに尽きるなぁ。
ということで、まずは3日間断食してみました!

20年間お世話になり、ありがとうございました!

恐るべし!ミャンマー人材採用に威力を発揮する「内田クレペリン検査」!

4月1日から新人6名が入社しました。
ついに新年度がスタート。弊社もこの日を目標に準備をしてきました。
今季は事業をさらにミャンマー人材関連に集中。ミャンマー人材のスペシャリストをさらに深堀していきます。それに伴い、新人6名は全員人材部門に配属。さらに、別部署からも人材部門に移動。事務所のレイアウトを一部変更、人数が増えましたが逆に事務所はすっきりしました。
とはいえ、候補者が溜まると熱気はすごく、息苦しさを感じるような活気あるオフィスは健在です。

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今回の新人採用には新しい試みをしました。
弊社がミャンマー国内代理店を行う、内田クレペリン検査。
これまで内田クレペリン検査を当地で実施、ミャンマーの方々の驚愕の結果にミャンマーでの有効性に自信を持っていました。
活用頂いている、ある在ヤンゴン日系工場では、内田クレペリンの検査結果を基に配置転換。生産性が上がるという結果がすでに出ています。
弊社でも検査結果を受け、受付の子の処理能力が普通の日本人以上のものを持っているとの結果で部署移動。新しい部署でさっそく効果をあげています。

これまで弊社で人材採用する際、履歴書をみて面接が一次審査。その後内田クレペリンを使用し採用に役立てていました。が、今回は、履歴書、人物に会う前に検査を実施。
そこで驚くべき検査結果が出ました。42名の候補者のうち、何と15名がマルA。日本人大卒の人でも取れない結果で、他の東南アジアではほとんど出てこない人物が1/3もいました。しかも、2/3は男性!(弊社採用は5名男性、1名女性)
いつも最終面接には女性ばかり残るのに(弊社だけではないと思います)、驚きの結果でした。驚きはそればかりではありません。処理能力が高い人物から面接したのですが、一番高いのは、茶髪の地方大学普通の学部大学卒、英語は少ししか話せない若者。二番目に高かったのは、貧相な顔(ごめんなさい)で、見た目仕事はできない典型のような外観。三番目は、真面目そうな育ちの良さそうな子でした。
ええええ。と思いましたが、質問したら、キレキレの回答。恐るべし内田クレペリン検査

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面接には、内田クレペリン検査の内田社長らも同席という豪華な面接。
内田社長も。「あの面接の状況でテストの結果がなければ、誰を取るか、決断に苦慮しそうな実感を持てました。もちろん検査は万能ではありませんが、面接を補う情報としての価値は、日本以上に高いのかもしれません。ミャンマーの大卒は英語の文法と単語はよく知っているので○Aの子はすぐに話せるようになりますので、英語力は気にしなくてもいいかもしれません」
とお話されていました。

弊社の幹部は女性がほとんど。ほかの日系企業も多く女性が活躍していて、男性は・・・という声がよく聞こえて来ます。が、女性の方が面接は上手ですし服装もしっかりしている人が多い。一方、男性は面接苦手な人も多く、きちんとした評価を受けてこなかっただけかもしれません。

ミャンマーの男性の底力はいかに???来週から本格的に勤務が開始。内田クレペリン検査で好成績をあげた彼らの活躍は、注目に値します!!!

筑波大学JapanExpertProgram入学説明会を行いました。

3月27日に筑波大学から野村准教授をお迎えし、ヤンゴンにて筑波大学JapanExpertProgram入学説明会を行いました。
弊社がミャンマーでのコーディネートを担当。

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英語と日本語の両方で、ヤンゴン外国語大学日本語学科長や日本語学校経営者向けと日本語を勉強しているミャンマー人の2部制で説明会が行いました。

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背景には世界の学生流動があります。企業のグローバル化に伴い企業はグローバルな視点を持った人材に注目。全世界での留学生が1995年170万人だったのが2015年には440万人に、さらに2025年には770万人になるとの予想。2020年予想の600万人のうち57%はアジア人学生になるそうです。(OECD調べ)

一方日本はというと少子化に加え、海外留学する日本人学生数は2010年から急激に低下。企業はアジアや海外展開が進展するも、日本人は内向きになるという現状から優秀な外国人材を取り込みたい企業が増えていると言われています。

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日本もこれらを問題視し大学の外国人留学生の取り込みに必死ですが、残念ながら成果をあげるまでには至っていないようです。数年前からここミャンマーでも各大学がプロモーションを行っているようですが、残念ながら弊社スタッフですら知りません。昨年はミャンマーにて早稲田大学・大学院が授業料免除、月12万円の奨学金がつくという好条件で募集しましたが、募集者一桁・・・と残念な結果に終わっています。

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今でも100万円近く支払い、日本の日本語学校に留学するミャンマーの人達は多く、金銭的な問題というよりは、プロモーションのやり方の問題と感じます。
また、もっと根本的な日本における大学事情や日本語学校、専門学校の位置づけなどの情報が不足しているのではとも感じています。

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今回はJapanExpertProgramの説明だけでしたが、筑波大学では日本語を必要としないプログラムも数多くあるそうで、再度、ミャンマーで大きなイベントを予定しているそうです。ミャンマーの若者に日本の教育制度や留学の仕方などの情報を、7年前に視覚障害者マッサージを理解してもらうため、ミャンマーのマスコミで打ち上げ花火を連発したように、ミャンマー国内の幅広い人々に情報発信していければと思います。

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尚、このJapanExpertProgramは、日本で働きたい、日本語関わる仕事をしたいと思っている留学生のために、筑波大学が日本語のスキルと専門分野の教育を集中的に行うプログラムを開設しました。将来的に日本とミャンマーを結ぶスペシャリスト育成のためのプログラムです。

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企業からはミャンマーに進出したいので、ミャンマー語が話せるなどの人材オファーをするも日本人は皆無。そこでミャンマーに進出したいのでミャンマー人で日本語を話せ文化も理解できているスペシャリストの要望が多いそうです。まさに市場が求めている人材育成のプログラム。
これまで日本語検定試験N1レベルが大学入学には必要でしたが、このプログラムはN3レベルから応募できる画期的なプログラムです。
興味あるミャンマーの方、是非ご応募ください!

*詳細は以下のホームページをご覧ください。

http://jp-ex.sec.tsukuba.ac.jp/ 

タイで人気の居酒屋「しゃかりき432”」のミャンマー2号店 がオープンしました。

タイで人気の居酒屋「しゃかりき432”」のミャンマー2号店 がオープンしました。

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タイに進出して3年で15店舗目。
最も勢いがある居酒屋としてバンコクでは有名だそうで、ここミャンマーも早くも2店舗目。このレストランのすごいところはいくつかありますが、その一つはバンコクで働いているミャンマー人スタッフをミャンマーに連れてきているところ。

ミャンマーに進出していく企業は、レストランだけでなく、どこの企業もそうですが、進出後の悩みは働くスタッフ。

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そんな中、この「しゃかりき432”」では開店初日からスタッフはキビキビと動き、ぼーーっと しているスタッフはいません。
ランチタイムにいったら、メニューをランチ定食のページを開いて説明しながら持ってきたり、大きな掛け声で「いらっしゃませ!」
初日からこんなことできる日本食レストラン、今までありませんでした。

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バンコクに店舗がありながら、ミャンマー人はよく働くので、と多くを雇用されている Shakarki432さん。レストランだけでなく、タイやマレーシアの工場でも同様のケースが多くあるようです。

これまで進出した日系企業の一番の悩みであった「人材」
企業で働く機会がこれまでなかったので、仕事の基本を社内で教えないといけません。
教えられた人材をハンティングしても、また別のところにハンティングされます。

ミャンマーに進出するためのヒントがそこにはあります。
もちろん、人材だけでなく、店作り、メニュー、価格設定もさすがです。
「タイで大阪のソウルフード!」との名の通り、たこ焼きやお好み焼きもあって、美味しいです!鍋料理やラーメン、デザートもありメニューも充実しています。ランチ定食も種類が豊富でお勧めです。サクラタワー近くに欲しい・・・

この店舗を見た弊社スタッフの感想。
「今ミャンマーから技能実習生などが海外に出始めています。この人達がミャンマーに帰ってくる5年後のミャンマー楽しみにです」
と。

なるほど。

SHAKARIKI 432″
http://www.shakariki432.com/

SHAKARIKI 432″ スーパーホテル店
営業時間:06:30-24:00
住所:No.51/D,Kabaraye Pagoda Road,(Inside Super Hotel)
電話番号:09-9755-62131

SHAKARIKI 432″ ヤンキン店
営業時間:06:30-23:00
住所:Building 215, Room(8), Yan Shin Street, Yankin Township
電話番号:09-9755-62131

視覚障害者支援で新しいアイデア出てきました!

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2年ほど前から準備してきた視覚障害者マッサージ訓練センターの開校式に参加してきました。どんな形にするか最初から関わらさせて頂き、全国盲学校や視覚障害者マッサージ店にもアンケートを実施。そしてついに形になりました。

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主な資金と運営アドバイスは日本財団。ただ、マッサージ治療費などで回し将来は支援なしで回していく予定。
このプロジェクトの中心は元マンダレー伝統医療大学長と元保健省伝統医療局長。役員メンバーにもずらりとマンダレー伝統医療大学の先生らが揃いました。

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そこにミャンマー盲人協会や弊社、ゲンキークリニックなどが参加。
生徒20名全員は住み込み1年間授業。当初は10名を予定していましたが、どうしても通いたいという生徒が増えて20名でのスタートになりました。オリジナルテキストが、バシっとできあがるのはさすが、大学教職員が軸にいるからこそ。

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一つだけ残念なのは視覚障害者マッサージにかかわる皆が一同に集まるオールスターにできなかったこと。
もともと私が6年前ゲンキークリニックを立ち上げた時も、ミャンマー視覚障害者マッサージはキリスト系と仏教系に別れていました。一つは海外からのファンドがついていて、もう一つはついていない。いずれにも協力を求めましたが、ファンドがついていない、政府系が全面協力、一方は全面拒否。
そして政府の後押しでゲンキーが当たり、視覚障害者マッサージがミャンマー社会に認知されました。

今の現状はというと、盲学校の中でさえ2つのコースに別れてしまいました。
皆どこも目指していることは一緒なんだから、一緒に協力すればいいのにと思いますけど、どこの世界もそうですが、なかなか一つにまとまることは難しいですね…。

昨日は、ヤンゴン国立盲学校の校長に招待され夕食ご一緒していました。
22年間盲学校で働き、長年副校長をされていた苦労人です。
最近、ミャンマーの障害者らが集まり団体を作り大きな話題となりました。あっという間に5000人以上が会員団体に成長し、世界各国から支援も集まっていると聞いていたので、盲学校もよくなったですか?と聞いたら、うちには恩恵なく・・・と。

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色々先生らと話しているうち、新しいアイデア思いつきました!
なら、うちは別にドナーなど関係なく、ジェイサットなどの事業利益を使って自分が喜び、社員らが喜んだらいいだけなので簡単に実行できます。

年内には実行したいと思います!そのためにも事業成功させないとっ!

補足ですが、マンダレーのこのマッサージ学校に決めた建物。
地方出身の医者夫婦が将来のミャンマーのためにと、自分の資産で財団を作り、この建物ごと寄付された建物です。夫婦ともすでに他界されていますが、このように有効活用されています。This is Myanmar ! 我々が学ぶべきことは沢山あります。。。

2015年12月31日 本日仕事納めです。

本年仕事納めです。

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10年前から毎年仕事納めにどんなことを書いていたか見直してみました。

2005年の仕事納めには
「今年はシティーマート爆破事件に首都機能移転、そして最後に雨のクリスマス、天候不順で国内線が大混乱!」
首都がネーピードに移転した年でした…

2006年の仕事納めには
「仕事納めの挨拶なしも、12月にセドナホテルのORZOのパスタビュッフェのレポート。一人USD10。今もこの値段ならなぁ…

2007年の仕事納めには
「2007年は10月20日まで続いたヤンゴン、マンダレーでの戒厳令が解除されたところで、仕事納めの挨拶なし・・・」
今やデモがあったことも遠い昔の話ですね…

2008年の仕事納めには
「Gamone Pwintに大阪ラーメンが出現」
今はなき、大阪ラーメンができただけでニュースです…

2009年の仕事納めには
「ヤンゴンは一般の人々の服装も含め変化が大きかったと感じます。」
総選挙前年、変わり始め、雰囲気が変わり始めています。服装の変化は選挙後ではなかったですね…。

2010年の仕事納めには
「2010年は海外投資が急増し、観光客も過去最多を記録。」
総選挙が終わり民政移管した結果が出ています。

2011年の仕事納めは
「ジョージソロス氏来緬と、年初早々また色々起こりそうで楽しみです。」
ビジネスは、まだまだ水面下での動きですね。

2012年の仕事納めには
「今も机の下には寝袋があり、ミャンマー人スタッフも何度も会社で寝て仕事する日が続きました。」
激しくなり始めています…。

2013年の仕事納めは
「もう一段上のところを皆で目指し成長しましょう!」
動き始めてる感があります。

2014年の仕事納めは
「15年以上拠点にしていたNyaunpinayzayからついに移転。あらゆる意味で卒業する年となるであろう2015年」
次のステージに上がることを示唆しています。

そして、2015年の仕事納めは…

政権交代が実現した総選挙が終わり、2016年4月は新政権が始動。
弊社も2016年4月を目標に、ついに動き出します。
事務所はついにサクラタワーに統合され各事業部が同じ事務所内に入り、2016年1月ー3月まではシステム再構築。そして4月に突入!

サクラタワー周辺も2016年はシャングリラホテルの新棟が完成。

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さらにボージョーマーケット前に建設中の新たな複合施設「ジャンクション・シティー」の一期工事が完成予定。高級ホテル「パン・パシフィック・ヤンゴン」(25階)、アイマックス(IMAX)が運営する国内初の映画館が入居したり、太陽光発電設備や廃水処理装置、雨水再利用システムなどが導入される予定の「ジャンクション・シティー・ショッピングセンター」の準備が整ってきて、ヤンゴンの景色が一変する年になりそうです。

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10年を振り返ると、ようやく導入期が終わり、来年から成長期に入ることがよくわかります。新政権同様、2016年1-3月に最終チェック、そして4月から本格的にスタートできるよう最終準備に入りたいと思います。

ミャンマーの激しい変化にお居ていかれないよう、しっかり食らいついていきたいと思います。

今年も多大なるご支援誠にありがとうございました。
来年も宜しくお願いいたします。

よいお年をお迎えくださいませ。

社外活動で孤児院に寄付してきました。

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社員が寄付に行きたいということで、社員らが場所を見つけアレンジ。会社として終日休みにして社外活動してきました。

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希望者47名、各自が給料から積み立ててきた寄付金を渡すため、サクラタワーに5時集合。15分前には多くの人が集まり3分前には全員揃い出発。
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場所はヤンゴンから片道5時間、ピィへ行く途中のGyobingaukの郊外と聞いていた情報とは異なり、ひたすら村へ続く牛車用の道。

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49名乗りの大型バスが通れる道ではなく、案の定、途中からバスを置き去りにし徒歩。

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僧院からトラックを持ってきてもらい、全員トラック荷台に乗り移り孤児院を目指すこと45分。

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ヤンゴンから大変な道中、約8時間かけて到着したThin Kha Yine Myittar Yeik 孤児院。

到着したら、まずはご飯を頂きました。

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小学4年生以下216名の孤児が生活するここでの一番の出費は食費。
50キロの米袋を一か月で45袋、一日の食費は11万チャット(約1万円)とのこと。運営は大きなお寺からの寄付で賄っているそうです。
5年生以上は中学校のある村にいるそうです。

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貧しく人々の支援で大学まで行った29歳の僧正。
多く人々の善意で育てられたので恩返しをしたいと教師を目指すも給料が安く社会に恩返しができない現実。
そこで思いついたのが僧侶になり孤児院を作ること。
大学卒業し僧侶になり、21歳のときに孤児院を現在の地に開いたそうです。

支援できる資金がある限りは拒否せず受け入れていきたいと話されています。
子供の境遇や僧院のことなど話して頂く間、泣いている社員も数名いました。
そして、最後に説教を一つ頂きました。

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「私は働きたくても働けない。働ける人は是非給料のすべてをお菓子などに使ってしまうのではなく、一部を寄付に回してください。」
と話されていました。
自ら貧しく、働きたくても働けない。稼ぎたくても稼げない、そんな境遇がこういった言葉を生んでいるのかもしれません。

生まれて両親がなくなり身寄りなく預けられた子供。学生で子供ができちゃって育てられなく捨てられた子供、出産後貧しく育てられないので病院に置き去りにされた子供。
そんな子供らが集まっている孤児院。
生まれた環境だけで、子供らには全く罪もない。不公平な現実。

働く環境がある我々。その環境を当然と思うのではなく、働きたくても働けない、努力したくても努力の先は何もない。そんな多くの人々の変わりに働くのが我々の役割。

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弊社のスローガン
「ガンバる人には先を見せてあげる。夢が見れる国に。Raise Your Dream」

この理念を実現するため、2016年も走り続けます!

【余談】
突然僧正が、この裏は戦時中日本軍が来ていた場所で・・・と案内してくれました。
バゴー山脈を越えて逃れてきた敗走ルート。近くには大きな湖。
そういえば、サイクロン・ナルギス到着2日前にこの場所近くでロケしていた番組のロケ中、戦時中の日本軍の話を聞いたことを思いだしました。バゴー山脈を命からがら越えてたどり着くも、湖に毒を盛られて多くの日本兵が死んだという話でした。
突然僧正がそんな話をし始め…、ミャンマーでどこか訪問するときは必ず理由があります。

【余談2】
施設内にあるパゴダ。以前はパゴダの真ん中当たりから水が出ていたそうです。施設に人が集まれば集まるほど多くの水が出る不思議なパゴダとして有名になり、一時は多くの人が集まったとのこと。ただ、2年程前にパゴダのための寄付金を誰かが騙し取ったそうで、その時から突然水が出なくなってしまったらしいです。

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