J-SATは25年間ミャンマーにて事業を行う実績と経験からミャンマー進出における

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ミャンマーのつぼ~ミャンマーから西垣がお届けするブログ

武山真理子さんの本を読んでみました。

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ベトナム戦争下のサイゴンで死にゆく兵士たちを励ますため踊り続け、1964年からバンコクに通い、現在バンコクで居酒屋「まりこ」を営む武山真理子さんの本を読みました。
有名な方で以前ご紹介頂いたのですが、恥ずかしながら全く知らず、せっかくのチャンスを台無しにしてしまいましたが、ずっと気になっていて、今回、本で勉強してみました。
まず思いだしたのは、戦前、ミャンマーに来られ、ほとんど日本にも戻らず2007年93歳で他界された「えみさん(鈴木考子さん)」。

いずれの方も長年異国の地に長らく滞在することは、周囲が思うほど大変と思っていないように感じました。私はまだ20年ちょっとだけですが、私も何とも思っていません。そして、皆さん、いつも聞かれる質問で「どうして日本ではなく・・・」ですが、本を読む限り、特に理由があって海外生活しているというより、いたって自然にというような印象でした。えみさんもそうでした。

その質問は私もよく聞かれて回答しますが、結局のところ、運命というか自然の流れで・・・が本音かなと。異国の地に長く住み続けることは、自らの意志では難しく、別の意志がないと難しいかなと感じてもいます。

この本読んでいて、何故かとても印象にのこったのが、「からゆきさん」

当たり前ですが、私が今感じている、異国の地で長く滞在するのは何ともないと思うのは、いつでも日本に戻れるからであって、100年前当地に来られた方とは全く違います。まだまだやるべきことはたくさんあります。こう来たかぁ~と。

「からゆきさん」ネットでググってみました。

「鎖国が解かれてから最初にこの国へ入った日本人は、からゆきさんで、明治14年(1881)には既に10人の日本人がビルマにおり、このうち6人が女性、同24年(1891)には69人(うち女性が49人)、さらに同34年(1901)には114人(うち女性は86人)と、常に女の数が男を上回っており、女性のほとんどはからゆきさんで、男の大半は彼女らを監督する者たちだったとみてよいという。
時が経過し、日本政府は「からゆきさん」を近代日本の恥部として大正9年(1920)、海外廃娼令を発布した。」(http://judo.daa.jp/z%20karayukisan.htm

今年で6年目を迎えた社会人向け視覚障害者マッサージ短期訓練コース

今年で6年目を迎えた社会人向け視覚障害者マッサージ短期訓練コース。今年は8名が卒業。この6年間でトータル60人が社会に飛び立ちました。

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このプロジェクトは弊社運営ゲンキーの利益を元に、ミャンマー社会福祉省との共同事業になります。弊社からは技術指導としてゲンキーのベテラン施術者派遣と食費などの経費負担。社会福祉省からは場所と受講者集め、宿泊施設などを提供。幼いときに盲学校に通えず大人になってしまった人を対象にしたこのプロジェクトは、ミャンマー政府からの評価は高く、どの組織からの支援も外国人技術指導も必要なく、ミャンマー人だけで企画、立案、資金繰り、すべて回る仕組みが出来上がりました。

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ゲンキー設立当初から、支援はいつか止まる。援助に頼らず自力で運営できる体制を作る。日本人ら技術者    を一時的に連れてくることは可能だが、それを50年、100年続けるのは難しい。視覚障害者は50年後も100年後も存在するだろう。外国人技術者が入ったシステムにすれば、それを抜け出すことは至難の業。専門技術者常駐なしでは難しく、時間はかかるかもしれないが、一度頼ると永遠に頼るシステムになってしまう。 一つ一つ自らで運営できるシステムを作りだすことが必要です。と8年前に宣言したことが、ようやく実ってきました。

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今では、全国に50以上の視覚障害者マッサージ店が出来上がりました。ゲンキーはそのうち2店舗だけですので、ほとんどが地元の人々らだけで運営されていることになります。 もともと趣味的なところで始めたゲンキー。 ところが、弊社の中軸事業に発展するであろう、今の介護訓練センターがあるのもゲンキー無しでは存在していません。

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視覚障害者マッサージ施設を作ろうと思ったのは、2008年5月のビルマ(ミャンマー)史上最悪の自然災害サイクロン・ナルギスががきっかけ。 その時にまさか介護訓練センターを運営するとは頭の片隅にもなく・・・。 介護訓練センターのパートナー、ミャンマー医師会の元会長や保健省元役人らは、ゲンキーの活動をよく知っておられ、彼らの団体には多くの日本人が訪れる中、パートナーには我々を選んでもらいました。 計算して物事やると上手くいかず、計算しないで行うと自然と結果がついて来るもの。計算をして行ったものは、ほとんどうまくいきません。よく言われますが、それをまさしく体感しています。

「死の鉄路 泰緬鉄道~ビルマ労務者の記録」を読んでみました。

「死の鉄路 泰緬鉄道~ビルマ労務者の記録」を読んでみました。

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まず、貴重で多くの人に読んで欲しい本だと思いました。
翻訳者の田辺さんがあとがきで書いておられます。「日本人では20万人もの人が戦病死した地であるだけに、体験された方が戦記を書かれている本は数多くあります。しかし、それらは日本人の側の声であって、ビルマ側のものはありません。この本は数少ないビルマ人が書いた本であるが、黒白をつけるものではなく、ビルマ人がそう見ていた。と受け取ってもらいたい」

中身は日本人には耳の痛い部分もありますが、当時の状況を想像してみると、たしかにその通りだと感じる部分は多々あります。当地でリサーチを行い、多くのビルマ人戦争体験者から話を聞いてきた経験からは、しっくりくる内容でした。

戦争は切り取ったところによって状況は変わります。
日本ではよくアウンサン将軍は日本軍が育て・・・という話が出ます。ちょうどこの本の前書きには、1946年12月18日タンビューザヤ軍墓地落成記念式典でのアウンサン将軍の演説があります。「4年前ぐらい前からわが国は戦火に見舞われた。戦火とともに日本の軍国主義たち、それに悪しきファシズムがやってきた」からはじまります。

ミャンマーは日本がイギリスからの独立を支援をしたので・・・と日本ではよく語られる部分ですが、ミャンマーの人からその通り!と言われたことはほとんどありません。また、日本でよく言われる、イギリス時代よりは日本時代がマシだった、というのも言われたことはありませんでした。本の中では「日本兵と仲良くしている、気にいられているビルマ人は優遇されて、その他は別の扱い、イギリス時代の階級社会と何ら変わらない」と語られています。同様なことは私も何度も聞きました。

当時の日本兵と今の日本企業戦士とがダブります。
ミャンマーに駐在している日本の人は大きく二つに分かれると思います。ミャンマー人が好きな人とそうでない人。現地に溶け込み地元の料理を食べる人もいたら、食事が合わない、汚い、電気がない、指示が守れないと文句ばかりいう人。
戦時中もそうだったような気がします。
溶け込んだ日本人には地元の人はサポート。逆に溶け込まない人は・・・。
戦況が不利になり撤退になれば、仲良くしていた人を地元の人は助けますし、そうでない人は想像ができます。そう考えれば、生き残って生還された方は、仲良くしていた人が多い、だから「ビルキチ」みたいな言葉が生まれたのではないのかな、と、この本を読んで感じました。

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ミャンマーの人は日本人が戦時中行ったことを知った上で親日の人が多くおられます。日本人も実際日本人がこのビルマの地でどういうことを行ったのか、それを直視しその上で今のミャンマーとつきあっていくことが大切だと思います。
ミャンマーの人のことを理解することがミャンマーでのビジネスの成功のカギ。
そのためには、戦時中のことから理解していくことが大切なように感じます。
この本、絶版ですがアマゾンでは簡単に手に入りますので、ミャンマーとビジネスしている方はぜひ!

今更ながら・・・社員教育・社内教育始めました。

今さらですが、4月からきちんと時間を取って社員教育を始めました。

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近年急激に社員数が増え、しかもほとんどが20代。
ミャンマー人の若者はすぐ転職する子がいたり仕事のことがわかっていない。とよく聞きます。それは、きちんと社員教育ができないことの裏返しだったと気づきました。

3月末に数名正社員として日本のIT企業などに人材紹介しました。現在多くの会社が、日本人新卒者と一緒に1か月間社員教育をされています。
教育を受けたミャンマー人スタッフに聞いてみると、本当に知らないことばかりで感謝した、仕事の意味がようやくわかった、と全員が感動、会社に恩返しを誓っていました。
ミャンマーに進出している日本の会社の多くは、採用=仕事を任せる となっていてまず社内教育をしている会社はほとんどないように思います。
ミャンマーの若者の多くは、仕事、働くことに関してよくわかっていないので、会社とは、利益はどうやって生み出されるか。から教えていく必要があると思い、そこから教えていくことにしました。
弊社では日本企業に対しての仕事がほとんどですので、日本語が使えれば使えるだけ仕事の幅が広がります。これについては社員からの発案で、日本語話せるスタッフが話せないスタッフに教えるクラスも始めました。
ミャンマーの人は学ぶことが好きな人が多く、離職率低下にも大いに貢献しています。

「会社の価値」=「社員の価値」

忘れず大切にします。

タンビュザヤの世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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泰緬鉄道のミャンマー側出発駅、タンビュザヤの泰緬鉄道博物館前に建立された、世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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モニュメントは元ヤンゴン日本人学校の置田校長先生と岐阜市の願成寺の住職を中心になった賛同者らが、お寺のお布施と置田校長の退職金を利用して白い大理石の発掘から平和の塔を建立、置田校長が個人的にすべてご準備されました。

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体感温度43℃の中、式典は住職のお経の後、置田校長先生のスピーチ。その後、泰緬鉄道建設に関わられ、戦後何度も来緬し慰霊を行われた木下さんからの戦時品を寄贈。今日の泰緬鉄道に対するミャンマー側の理解は木下さんが作られたといっても過言ではないそうです。

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戦地から絵手紙を日本に送られていた、後藤一味さんの絵手紙を拡大したものも寄贈されました(石塚まみさん寄贈)。参列されたミャンマーの関係者の方も、戦時中に書かれた平和を願う後藤さんの絵に驚いておられました。これらは博物館に展示される予定です。

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その後ミャンマー側からは、モン族の伝統舞踏が演じられました。

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式典には正月明けの初日、最も忙しい日にも関わらず新しく就任したモン州首相も参列(前日夜に参加表明)。

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ミャンマーの人は戦争について、あの時代だったから仕方なかった。と話す人が多くおられます。
輪廻転生を信じる仏教徒の方は、今生だけを自分の人生と捉えているのではなく、前世、来生も含めての自分の人生と理解しているのが一因のようです。泰緬鉄道で犠牲になった人は、もしかしたら前世は逆の立場だったのかもしれない。泰緬鉄道で加害者になった人は、来生は被害者になるだろう。うちの社員らと話しているとそういう理解で、日本軍が行ったこともある程度受け入れているように感じます。

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平和の塔の除幕式では、置田先生から、これは新たな出発式であるという挨拶がありました。「今回は平和の塔を建てるのが目的ではなく、平和の教え自他平等の精神を広めるために第一歩だったと感じています。(置田校長)」「自と他は一枚の紙の表裏のように、常に分けることのできない一つ、絶対に分けてはならない一つ」と塔には記載されています。
まさに、カンチャナブリでも感じた、加害者と被害者は表裏一体。泰緬鉄道はもともとイギリスが作ろうとした。戦後、日本兵はシベリア鉄道建設に連れていかれた。等々。どの時代で切り取るかで、加害者と被害者が変わってきます。
ミャンマー的な発想は、まさしく平和的な発想だと感心しました。

そんな発想が、今年1月に完成された泰緬鉄道博物館にも現れています。泰緬鉄道建設の説明は、「ミャンマー繁栄のために参加した」から始まります。泰緬鉄道博物館のオープニング式典には、鉄道建設に関わった木下さんを日本人としてただ一人、ミャンマー政府が招待しました。戦後何度も慰霊に来られたご尽力につきるのですが、それを政府として認めたことこともすごいことだと思います。

<映像はこちら>

https://www.facebook.com/488909774619574/videos/521523598024858/?video_source=pages_finch_main_video
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もちろん泰緬鉄道建設について、納得できない人が今も多くおられると思います。最難関だったと言われるヘルファイア・パス(HellFire Pass)を訪れたときは、まだ成仏せずに掘り続ける人がいるようにも感じましたし、ミャンマー国内でも日本兵の霊が出るのは今も日常茶飯事の出来事です。

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「被災地、タクシーに乗る幽霊 東北学院大生が卒論に」(朝日新聞)http://digital.asahi.com/articles/ASHDY737QHDYUNHB00B.html という記事を思いだしました。「死んだと納得したら霊は消えていた」とあります。

人生は時代によって様々なことが起こります。特に戦争は個人ではどうしようもないこともあります。しかし、起きてしまった出来事を受け入れ納得する。それが来生にもつながり平和につながる。それを理解するために、この10日間があったのかなぁ。とそんなことを感じながら、夜中ヤンゴンに戻る車の中で考えていました。

ミャンマー。いろいろありますが、やはりこの国の国民はすごいです。

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追伸:泰緬鉄道博物館は写真が数点並べていますが、展示品が圧倒的に少ない状況です。ただ、資料は、連合軍側からのもの、日本軍からのもの、ミャンマー側か らのもの とそれぞれが一緒に展示されています。日本政府としてインフラ整備にODAを拠出するのもいいですが、資金の一部をこの施設 のために協力してもらえれば、より発展的な日緬友好につながるのではないでしょうか。

泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Centre)の1日歴史ツアーに参加して感じたこと。

カンチャナブリ市内にある泰緬鉄道博物館の1日歴史ツアーに参加しました。朝8時半にホテルに迎えに来てもらい、まずは泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Center)をじっくり見学。

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泰緬鉄道博物館創設当時から働くマネージャーが専属ガイドとして特別に終日案内してくれました。彼女はほとんどガイドとして一般客を案内しないそうですが、突然指示され本日案内することになったそうです。

タイ人・日本人・ミャンマー人のこのグループらしく、それぞれの国の立場での意見があり、認識の仕方 (教えられ方)も違っていて、中身の濃い1日となりました。

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その後、収容所跡や当時の駅跡、どのように捕虜が現場に送られていったのか等、普通のツアーとは全く違い、彼女が持参した昔の貴重な資料を見ながら、彼女自身が多くの証言者からヒアリングした内容などとともに詳細説明してくれました。

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朝8時半からスタートし、終わったのは18時過ぎ。当地を訪れる方には是非お勧めのツアーです。

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いくつか回った後、旧泰緬鉄道のナムトク線に乗車。

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ハイライトのティンバートレッスル橋(アルヒル桟道橋)、全長約300mS字カーブの木造橋は2週間で作り上げたということには驚きました。

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ランチ後はヘルファイアー・パス博物館(サイヨーク)。

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Hellfire Pass では、竹の松明で毎日18時間労働し切り立った崖を素手で切り開いた痕がいくつも残されています。

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慰霊碑の先は木の橋(今は朽ちてありません)があり、その先にずっと続いていきます。泰緬鉄道の8つの大きな橋のうち、タイ側は1か所、ミャンマー側は7か所。ということは、ミャンマー側はすごい状況であったことが想像できます。

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博物館には泰緬鉄道に関わった国別強制労働者数がありましたが、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、アメリカ人らが61,800人参加、うち12,619人死亡【POW/捕虜】、インドネシア人、マレーシア人、ベトナム人、ミャンマー人などアジア人【SLAVE/奴隷】が20万人参加、うち8万5千人が死亡。(ミャンマー人は18万人参加し4万人死亡と記述)
にも関わらず、犠牲になったアジアの人々の墓地や慰霊碑だけでなく、記載やデータもほとんどない現状。しかも、アジアの人々を区別して【奴隷】と記載。

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タイ人のマネージャーが長年この仕事を続けているのも、タイではこの史実を学校では詳しく教えておらず、機関車や橋を背景に写真を撮ったりしているだけなのは悲しく思い、皆に知ってほしいから働いていると話していました。

ミャンマーでも詳しくは学校で教えていないそうです。ミャンマー人観光客が正月休暇中ということもあって多く訪れており、記念撮影をしていましたが、この建設に関わった全人数の約60%、亡くなった人の40%がミャンマー人だったということを理解しているのでしょうか。16ヶ月で10万人が亡くなったということは、毎日200名以上亡くなっていた計算です。

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泰緬鉄道は、もともとイギリスが植民地時代に敷設しようとした路線。当時、もし労働者が確保でき、建設工事が始まっていたら今の歴史とは全く逆の立場。

日本人はというと、戦後日本人捕虜ら日本人107万人はシベリアに輸送され鉄道建設や森林伐採、炭鉱労働で約34万人が犠牲になりました。

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ミャンマーの人々は日本軍が統治していた時代のことを日本よりは詳しく教えており、授業で勉強したときは、日本人は戦時中どれだけミャンマーの人に対して悪行行ったひどい人だと感じる人が多いようです。ただ、戦後の日本による支援や日本人と直接触れたことによって、歴史も受け入れた上で多くの人が親日家になるそうです。

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映画『レイルウェイ 運命の旅路』をみました。実際にタイの捕虜収容所で、憲兵隊の通訳を担当していた永瀬隆さんという方、恥ずかしながら知らなかったのでネットで調べてみました。

「永瀬さんは旧日本軍への憎しみを持つ元捕虜のの中、何度もの英国の退役軍人会などに手紙を書き続け、76年10月。23人の元捕虜がクワイ河のかかる橋の上に集まった。和解に向けた第一歩は元捕虜の批判も巻き起こした。「旧日本軍と和解するのは裏切り者の行いだ」。旧日本軍の間にも永瀬さんの活動への反発は強かった。それでも永瀬さんは地道に元捕虜たちとの和解活動を続けていく。「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(3)巡礼:http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140112-00031506/

映画『レイルウェイ 運命の旅路』では、お互いが当時を振り返り、そしてその事実を知り理解し、「和解に尽力してきたあなたは誰よりも勇気がある。カンチャナブリーで起こったことを忘れはしない、でも、あなたのことは心から赦そう、憎しみはいつか終わらさなければ」。二人はよき友となり、2011年、永瀬の死まで友情は続いた。2012年にエリックが亡くなり、パットが見守った。と終わります。

ここに大切なヒントがあると思います。何事も人それぞれに、価値観・歴史観が異なるので、歴史の伝え方も違う。それぞれ一方の主張だけだといつまでも平行線になってしまう。この泰緬鉄道博物館も同じ。70年経った今もヘルファイアー・パスには日本軍に対し憎悪を憎しをもった人々が残されているように感じました。当時を振り返りお互いが理解しあえる、未来につながる機会が必要です。

今月から日本兵の遺骨収集が再開されたから今こそ、どうして人々は死んでいったのか。そしてその人達に関わっていた人達はどうだったのか。相手国(連合国側)はどうだったのか。
ティラワに巨額な支援をする前に、日本は戦争の史実を日本人用だけのものではなく、現地の人にも、未来を支える日本人にも、イギリスやインドの人にも、史実を恐れずきちん伝える博物館などを建設すべきだと感じます。

例えば、ミャンマー政府、日本政府、インド政府、イギリス政府、ミャンマー民間、日本民間、イギリス民間、インド民間、それぞれが関わり納得でくるような博物館があればいいのかもしれな。そういう歴史博物館を作ることも重要な支援ではないでしょうか。

日本へのミャンマー人材派遣・紹介サイトのホームページが完成しました!

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もうだいぶ前の話ですが、海外派遣用サイトがようやく完成しました。
これまで口コミだけで対応してきましたが、ミャンマー人材を送り始め実績が積みあがってきましたしお問い合わせも多いためいつも資料がなく困っていました。

ミャンマー介護人材派遣もいよいよ本格化してきそうということから、心決めて一気に作り上げました。
といっても、ネットで検索して日本の業者さんにお願いしただけ。
このサイトでかかった費用、10万円ちょっとなんです。

しかも、このサイト制作が今の時世そのままなのです。

ミャンマーでホームページ制作と検索して良さそうなサイトに依頼。
日本に滞在されていそう?な人と一度だけスカイプのやり取りして、あとはヤンゴンから文章とイメージと写真を担当になった日本人の方に送る。すると1週間後にはサンプルが出来上がってきました。
そして修正などやりとりして3週間足らずで完成。修正も翌日には必ずやってきます。
完成してからわかりましたが、この担当の方、何とオーストラリア在住の方でした。
ということは、
ミャンマーで発注、日本で受注、オーストラリアに発注。ミャンマーとオーストラリでやり取り。という流れ。しかも皆日本人。ほんと、今風です。

すごい時代になったと感動したら、実は自分が手掛けているのも同じですね。
日本で受注してミャンマーで日本語ができるミャンマーの人が制作、そして日本に戻す。
そういう時代ですなんですね。実感。

すべて納品終わり、このサイト制作担当の方からのメールで感動しました。
日本のクリエーターの方、レベル高いですねー。

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少しでもお客様のご要望にかなったサイトになったようでこちらこそとても嬉しく思っております。
修正や素材の提供等、毎回迅速にご対応頂き、こちらもスムーズに制作を進めれる事が出来ました。改めてありがとうございました。
私自身、今回の制作を通じ、それぞれの国がいま抱えてる雇用・労働者問題について改めて深く考えさせられました。そのプラスとマイナスを上手く相互で補い合う事によって、国同士の生産性や技術力も向上し、それぞれに還元される、とても素晴らしい考えだと思います。今や中小企業だけでなく、農業や漁業から離れてく若者も多く、ヒューマンリソースの問題はいま日本企業が抱えるとても難しい問題だと思います。
日本もまだまだ水面下で就職氷河期が続いているとはいえ、仕事の内容さえ選ばなければ、まだ生きていくだけの食費や生活費は稼げる仕事があるだけ恵まれているとも感じました。一概に全ての若者にあてはまるとは言えませんが、今の日本の若者は、まだ「職を選べる」立場にあるのではないかと思います。その点、ミャンマーの若者達は良い大学を出ているのにも関わらず、第二言語をもマスターして、違う文化や環境の下で働く事にひたむきに頑張る姿勢に強く感動しました。それをこのサイトで少しでも上手く分かりやすく伝えれれば良いなぁと思いながら制作させて頂いた次第です。
少し余談にはなりますしたが、今後とも御社の活動と発展に多々期待しております。

CHACO-WEB
WEBクリエーター/デザイナー
山下 真智子
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一番館が20年の歴史に幕を閉じました。

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私がミャンマーにやって来たのは96年4月。一番館は96年5月にオープンしました。この一番館が先月31日、20周年を持って、連日予約が入れない状況下、皆に惜しまれつつ閉店しました。
小丸夫人が、丸20年という区切りなどもあり英断されたそうで、今後の人生を楽しまれるそうです。
多くの日本食レストランがヤンゴンに出来ましたが、家賃がすぐ高騰することやパートナーの問題なので、5年以上続くのは至難の業。そんな中20年、しかも冬の時代を乗り越えて変わらず繁盛されているのは、様々な工夫と地道な努力と活動、それが大切と思ってもなかなか真似ができないことを20年間やり続けてこられたことにあるかと思います。こちら、インタビューした記事がありますのでご覧ください。
http://yangonow.com/jpn/interview/?p=113

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最後の日。話題はやはり、その引き際。その後どうします?と。
私はずっとヤンゴンで生活してることに違和感はなく、ヤンゴンで死んだ場合は骨は・・・と周囲に伝えているのですが、意外にみなさん日本に戻ることを想定されておられることに驚きました。さらに、会社をどうするのか等々。
一応考えてはいるのですが、50歳を超えたらあっという間に時が過ぎそうなので、来週からの水祭りの間、本読みながらゆっくり考えてみます。

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人材育成と健康。これに尽きるなぁ。
ということで、まずは3日間断食してみました!

20年間お世話になり、ありがとうございました!

恐るべし!ミャンマー人材採用に威力を発揮する「内田クレペリン検査」!

4月1日から新人6名が入社しました。
ついに新年度がスタート。弊社もこの日を目標に準備をしてきました。
今季は事業をさらにミャンマー人材関連に集中。ミャンマー人材のスペシャリストをさらに深堀していきます。それに伴い、新人6名は全員人材部門に配属。さらに、別部署からも人材部門に移動。事務所のレイアウトを一部変更、人数が増えましたが逆に事務所はすっきりしました。
とはいえ、候補者が溜まると熱気はすごく、息苦しさを感じるような活気あるオフィスは健在です。

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今回の新人採用には新しい試みをしました。
弊社がミャンマー国内代理店を行う、内田クレペリン検査。
これまで内田クレペリン検査を当地で実施、ミャンマーの方々の驚愕の結果にミャンマーでの有効性に自信を持っていました。
活用頂いている、ある在ヤンゴン日系工場では、内田クレペリンの検査結果を基に配置転換。生産性が上がるという結果がすでに出ています。
弊社でも検査結果を受け、受付の子の処理能力が普通の日本人以上のものを持っているとの結果で部署移動。新しい部署でさっそく効果をあげています。

これまで弊社で人材採用する際、履歴書をみて面接が一次審査。その後内田クレペリンを使用し採用に役立てていました。が、今回は、履歴書、人物に会う前に検査を実施。
そこで驚くべき検査結果が出ました。42名の候補者のうち、何と15名がマルA。日本人大卒の人でも取れない結果で、他の東南アジアではほとんど出てこない人物が1/3もいました。しかも、2/3は男性!(弊社採用は5名男性、1名女性)
いつも最終面接には女性ばかり残るのに(弊社だけではないと思います)、驚きの結果でした。驚きはそればかりではありません。処理能力が高い人物から面接したのですが、一番高いのは、茶髪の地方大学普通の学部大学卒、英語は少ししか話せない若者。二番目に高かったのは、貧相な顔(ごめんなさい)で、見た目仕事はできない典型のような外観。三番目は、真面目そうな育ちの良さそうな子でした。
ええええ。と思いましたが、質問したら、キレキレの回答。恐るべし内田クレペリン検査

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面接には、内田クレペリン検査の内田社長らも同席という豪華な面接。
内田社長も。「あの面接の状況でテストの結果がなければ、誰を取るか、決断に苦慮しそうな実感を持てました。もちろん検査は万能ではありませんが、面接を補う情報としての価値は、日本以上に高いのかもしれません。ミャンマーの大卒は英語の文法と単語はよく知っているので○Aの子はすぐに話せるようになりますので、英語力は気にしなくてもいいかもしれません」
とお話されていました。

弊社の幹部は女性がほとんど。ほかの日系企業も多く女性が活躍していて、男性は・・・という声がよく聞こえて来ます。が、女性の方が面接は上手ですし服装もしっかりしている人が多い。一方、男性は面接苦手な人も多く、きちんとした評価を受けてこなかっただけかもしれません。

ミャンマーの男性の底力はいかに???来週から本格的に勤務が開始。内田クレペリン検査で好成績をあげた彼らの活躍は、注目に値します!!!

筑波大学JapanExpertProgram入学説明会を行いました。

3月27日に筑波大学から野村准教授をお迎えし、ヤンゴンにて筑波大学JapanExpertProgram入学説明会を行いました。
弊社がミャンマーでのコーディネートを担当。

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英語と日本語の両方で、ヤンゴン外国語大学日本語学科長や日本語学校経営者向けと日本語を勉強しているミャンマー人の2部制で説明会が行いました。

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背景には世界の学生流動があります。企業のグローバル化に伴い企業はグローバルな視点を持った人材に注目。全世界での留学生が1995年170万人だったのが2015年には440万人に、さらに2025年には770万人になるとの予想。2020年予想の600万人のうち57%はアジア人学生になるそうです。(OECD調べ)

一方日本はというと少子化に加え、海外留学する日本人学生数は2010年から急激に低下。企業はアジアや海外展開が進展するも、日本人は内向きになるという現状から優秀な外国人材を取り込みたい企業が増えていると言われています。

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日本もこれらを問題視し大学の外国人留学生の取り込みに必死ですが、残念ながら成果をあげるまでには至っていないようです。数年前からここミャンマーでも各大学がプロモーションを行っているようですが、残念ながら弊社スタッフですら知りません。昨年はミャンマーにて早稲田大学・大学院が授業料免除、月12万円の奨学金がつくという好条件で募集しましたが、募集者一桁・・・と残念な結果に終わっています。

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今でも100万円近く支払い、日本の日本語学校に留学するミャンマーの人達は多く、金銭的な問題というよりは、プロモーションのやり方の問題と感じます。
また、もっと根本的な日本における大学事情や日本語学校、専門学校の位置づけなどの情報が不足しているのではとも感じています。

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今回はJapanExpertProgramの説明だけでしたが、筑波大学では日本語を必要としないプログラムも数多くあるそうで、再度、ミャンマーで大きなイベントを予定しているそうです。ミャンマーの若者に日本の教育制度や留学の仕方などの情報を、7年前に視覚障害者マッサージを理解してもらうため、ミャンマーのマスコミで打ち上げ花火を連発したように、ミャンマー国内の幅広い人々に情報発信していければと思います。

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尚、このJapanExpertProgramは、日本で働きたい、日本語関わる仕事をしたいと思っている留学生のために、筑波大学が日本語のスキルと専門分野の教育を集中的に行うプログラムを開設しました。将来的に日本とミャンマーを結ぶスペシャリスト育成のためのプログラムです。

Japan Expert Program のポスター0001

企業からはミャンマーに進出したいので、ミャンマー語が話せるなどの人材オファーをするも日本人は皆無。そこでミャンマーに進出したいのでミャンマー人で日本語を話せ文化も理解できているスペシャリストの要望が多いそうです。まさに市場が求めている人材育成のプログラム。
これまで日本語検定試験N1レベルが大学入学には必要でしたが、このプログラムはN3レベルから応募できる画期的なプログラムです。
興味あるミャンマーの方、是非ご応募ください!

*詳細は以下のホームページをご覧ください。

http://jp-ex.sec.tsukuba.ac.jp/